香焼炭鉱・香焼町関連

2023年04月04日 10:17

撮影日:2023(R5).04.01

『4年振りに眺めるチューリップ畑』

今日はドライブしながら桜を眺めたあと、香焼町安保地区で開催されている「香焼チューリップまつり」にも立ち寄りました。
コロナ禍においても町民の方々による球根の管理は行われ、花は毎年綺麗に咲いていたと思いますが、私自身が外出を控えていたこともあり4年振りの訪問となります。
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チューリップ以外の花壇もあります。
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恒例の展望台からの定点撮影
左の花壇は見頃を過ぎていますが、右の花壇は満開から散り始めです。
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駐車場になっている場所を見ると香焼炭鉱時代のアパートを思い出します。
「いつか読書する日」のロケ地でしたね。
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案内板にもアパートが写っています。
丘の上には「丹馬アパート」がありましたが、すでに取り壊され現存しません。
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道路を直進すると本村に繋がる「香焼トンネル」、こちら側から進入できる一方通行のトンネルです。ブロック塀は炭鉱時代の病院跡地です。
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右側の木々に覆われた部分にも炭鉱アパートがありました。
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香焼の過去記事を振り返ると、香焼を散策していた頃から10年以上が経過しています。
新しく何かが出来たと言うよりも、自然に還った風景が増えたような気がします。
またゆっくり歩いてみたいと思いながら帰路につきました。

香焼の記録は、カテゴリー「香焼炭鉱・香焼町関連」にてご覧いただけます。


2021年12月03日 10:00

撮影日:2021(R3).10.23

『リゾートアイランドに炭鉱があったことの証し』

伊王島の隣にある香焼島(今は埋め立てにより本土となる)では、すでに元禄年間の1700年頃農民の勝手掘りにより石炭採掘が始まったとされているが、伊王島では石炭がないと言われ開発が行われることはなかった。

1935年(昭和10年)、当時の日鉄鉱業株式会社嘉穂鉱業所常務の松村茂氏は、伊王島にも石炭はあるとし、沖之島北部「乗越」での試錐で有望な石炭層(海底炭層)を発見した。
試錐は9月開始され、12月に着炭。炭層は9m余りあることが確認された。

1941年(昭和16年)2月11日、地元住民の協力を得て伊王島炭鉱(日鉄鉱業株式会伊王島鉱業所)が開坑される。
最盛期の1962年、島の人口は7,600人に達し、島内には銀行、映画館、商店街、炭鉱住宅が建ち並び、高島・端島(軍艦島)・崎戸島などと同様に石炭の島は活況を呈する。

1950年代、中東・アフリカで大油田が発見され、産業界では石炭から石油へと燃料転換が急速に進むエネルギー革命の時代を迎える。
また、コスト面においても海外の安価な原料炭の輸入が増加し、採炭条件が厳しい国内炭は生産コストが上昇、炭鉱経営は苦境に追い込まれることとなる。
さらに国の石炭鉱業審査会において国内炭の段階的縮小を図る答申が出され、これまで経営を継続していた各地の炭鉱は漸時閉山を迎えることなる。

このような情勢の中、伊王島炭鉱は操業を継続していたが、1965年(昭和40年)には死者30名を出すガス爆発事故もあり、1972年(昭和47年)3月30日閉山。
31年という短い山の歴史にピリオドを打った。

長崎県内の主要な炭鉱の閉山時期
・香焼炭鉱 1964年(昭和39)
・崎戸炭鉱 1968年(昭和43)
・大島炭鉱 1970年(昭和45)
・伊王島炭鉱1972年(昭和47)
・端島炭鉱 1974年(昭和49)
・高島炭鉱 1986年(昭和61)
・池島炭鉱 2001年(平成13)

金刀比羅神社は伊王島の最高峰唐船岳(とうせんだけ・108.6m)山頂にある。
付近の字名を唐船守というところから唐船の出入りを監視する遠見番所があったと考えられる。
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金刀比羅神社の石祠は1973年(S48年5月10日)伊王島炭鉱の閉山に伴い日鉄鉱業(株)伊王島鉱業所と舟津郷氏子によって改修奉納されているが、今は祭祀が行われることもなく荒廃している。
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祠も近づけないほど藪に覆われています。
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石祠に絡みつくツタを取り払う。
「金刀比羅神社改修記念碑」
傍らには三角点。
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「奉納 日鉄鉱業株式会社伊王島鉱業所」
50年の時間を感じさせない存在感
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「記 昭和16年2月11日開坑 昭和47年3月30日閉山」
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「昭和48年5月10日 舟津郷氏子一同建立」
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炭鉱閉山後、伊王島の人口は激減。
島は新たな基幹産業としてリゾート施設を誘致、現在に至ります。
今日は唯一、伊王島に炭鉱があったことの証し、唐船岳山頂金刀比羅神社の石祠のお話でした。
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炭鉱があったころの画像は ⇒ HP「伊王島の歩き方」 をご覧ください。


2019年03月26日 01:00

撮影日:2019(H31).03.24

『春の陽気に誘われて・・・。』

チューリップ祭りのイベントに合わせ、久しぶりに香焼散策に出かけました。
天気にも恵まれイベント会場は大盛況でした。
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今年はイベントと開花がベストタイミング、きれいに咲き誇っています。
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ここ安保を訪れるたびに、炭鉱時代に建てられたアパートを思い出します。
(写真は10年前の3月)
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今日は安保から丹馬、遠見岳(香焼)、総合公園、伊王島大橋、遠見岳(伊王島)と歩き、新たな発見や消えてしまったものを再確認できました。
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転勤生活が終わり長崎に戻ってきたので、また香焼散策を再開したいと思います。


2014年03月30日 18:18

撮影日:2014(H26).03.23

『今年も見事に咲いています!』

3月23日、香焼チューリップまつりが開催されました。
住民の皆さんが愛情込めて育てた約5万本のチューリップが、今年も色とりどり美しく咲き誇っていました。
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写真中央上に、香焼炭鉱があった時代から唯一残る丹馬団地のアパートが小さく写っています。
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安保アパートがあった場所に今日は出店が並び、特設ステージでは子供達のブラスバンド演奏などが行われていました。

安保アパートがあった頃 → 過去記事
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晴天で暖かな春の一日、いつもは静かな安保地区を笑顔と賑やかな声が包んでいました。
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伊王島へお出かけの際は、是非安保のチューリップ畑にもお立ち寄り下さい。

2014年02月09日 23:07

撮影日:2009(H21).12.06

『今は消えた「人造大理石研ぎ出し」、略して人研ぎ(じんとぎ)の流し台』

解体途中(2009年)の香焼炭鉱安保アパートの写真から、昭和の生活や炭住アパートの構造を覗いてみました。
安保AP1


今は戸建、アパート・マンションに関わらず殆どの家のシンク(流し台)はステンレス製です。
ステンレス製シンクの量産が始まったのは1955年(昭和30)年、今から60年前のことです。
翌年からステンレスのシンクは公団団地の指定商品となり、急速に全国へ広まっていきました。
安保アパートも昭和30年代に建てられらものですが、まだステンレスシンクの採用は間に合わなかったようです。
安保AP2


ステンレス製シンクが登場する以前は建築用語で「人造大理石研ぎ出し」、略して「人研ぎ(じんとぎ)」と呼ばれる流し台でした。
もちろん今のシステムキッチンと呼ばれるような、調理スペースや収納キャビネット、コンロが一体となったものが生まれる前のことです。
それでも安保アパートの人研ぎ流し台を見ると、浅型と深型のシンク、コンロ設置台、引き出し収納など使い勝手に配慮した造りになっています。
安保AP4


その後日本では、ステンレス製シンクの普及に伴いシステムキッチンが誕生し、シンクはその一部となります。
更に台所と食事をする居間が別々であったライフスタイルが、調理と食事や団欒するスペースを併せ持つダイニンキッチン(DK)、リビングダイニングキッチン(LDK)へと変わっていきます。現在、DK・LDKは間取りを表す規格として呼ばれるようになりました。

ブロック造り2F建ての安保アパート、よく見るとトイレも水洗化されており長崎市内より早く下水道が普及していたようです。
安保AP3


炭鉱は危険と隣り合わせの過酷な労働でしたが、暮らしの中には新しい技術が多数採り入れられていたようです。

今も学校や公園では人研ぎの手洗い場を見ることができますが、需要は減ってしまい人研ぎを施工できる左官職人が居なくなっているそうです。
機械が便利な物を大量に生産した結果、人の技術を淘汰していくのは残念な気もしますね。


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