食べ物
2024年07月02日 10:51
撮影日:2024(R6).06.30
『やっぱり焼き飯も頼めば良かった・・・。』
店名が示すとおり開店は昭和38年(1963年)10月。
創業61年を迎える長崎の老舗ラーメン店「三八ラーメン」。
現在は本店(銅座)、浜町店、銅座店、住吉店の4つの店舗で営業中。
長崎の麺類と言えばちゃんぽん、皿うどんとなりますが、三八ラーメンはラーメンが主力。本店は今もラーメンとおでんのみを提供しています。
本店以外はちゃんぽん、皿うどん、中華丼、焼き飯などの中華軽食を提供していますが、個人的にはラーメンと焼き飯が定番な感じです。
浜ん町周辺でもこだわりの新興ラーメン店が出来ては潰れ、なかなか定着できないようです。
三八ラーメンは懐かしいような、変わらない味が魅力です。これからも長崎の味を受け継ぎ長く営業して欲しいと思います。
〈余談〉
10年数年ぶりの訪問でしたが変わらぬ味で満足でした!
店構えも変わらず、ご主人もお元気でした。
希望の麺の固さを確認されました。昔は聞かれることはなかったような・・・。
もやしラーメン810円、物価がどんどん上がってますね。
今も出前はやっているのかなぁ?
『やっぱり焼き飯も頼めば良かった・・・。』
店名が示すとおり開店は昭和38年(1963年)10月。
創業61年を迎える長崎の老舗ラーメン店「三八ラーメン」。
現在は本店(銅座)、浜町店、銅座店、住吉店の4つの店舗で営業中。
長崎の麺類と言えばちゃんぽん、皿うどんとなりますが、三八ラーメンはラーメンが主力。本店は今もラーメンとおでんのみを提供しています。
本店以外はちゃんぽん、皿うどん、中華丼、焼き飯などの中華軽食を提供していますが、個人的にはラーメンと焼き飯が定番な感じです。
浜ん町周辺でもこだわりの新興ラーメン店が出来ては潰れ、なかなか定着できないようです。
三八ラーメンは懐かしいような、変わらない味が魅力です。これからも長崎の味を受け継ぎ長く営業して欲しいと思います。
〈余談〉
10年数年ぶりの訪問でしたが変わらぬ味で満足でした!
店構えも変わらず、ご主人もお元気でした。
希望の麺の固さを確認されました。昔は聞かれることはなかったような・・・。
もやしラーメン810円、物価がどんどん上がってますね。
今も出前はやっているのかなぁ?
2020年04月14日 00:30
撮影日:2012(H24).11.17
『並んでも食べた定食屋さん』
今日も昔の写真帳(2012年)から・・・。
福岡市には二度転勤し、合計7年間の単身生活でした。
福岡転勤が決まると「天神が近くてよかねぇー、都会でよかねぇー」などとよく言われましたが、毎日の暮らしだけを考えると長崎だろうと福岡だろうと大差はありません。
都会で得られる便利さや楽しみは、お金と相関関係がありますからね。
ただ、そんな福岡生活で良かったことは、食事処がたくさんあることです。
もちろん高級店ではなく、いろんな定食屋さんがあることでした。
今日の写真は天神から少し離れた場所にある「梅山鉄平食堂」。
魚メインの定食屋さんで、刺身から煮つけまでいろんな魚のメニューが揃っていました。
「今はどーなっているのかなぁ?」と思って検索すると店舗が増えていたので大繁盛なのでしょう。
グルメねたは滅多に登場しないこのブログですが、今日は「梅山鉄平食堂」おすすめです。
梅山鉄平食堂 → クリック
『並んでも食べた定食屋さん』
今日も昔の写真帳(2012年)から・・・。
福岡市には二度転勤し、合計7年間の単身生活でした。
福岡転勤が決まると「天神が近くてよかねぇー、都会でよかねぇー」などとよく言われましたが、毎日の暮らしだけを考えると長崎だろうと福岡だろうと大差はありません。
都会で得られる便利さや楽しみは、お金と相関関係がありますからね。
ただ、そんな福岡生活で良かったことは、食事処がたくさんあることです。
もちろん高級店ではなく、いろんな定食屋さんがあることでした。
今日の写真は天神から少し離れた場所にある「梅山鉄平食堂」。
魚メインの定食屋さんで、刺身から煮つけまでいろんな魚のメニューが揃っていました。
「今はどーなっているのかなぁ?」と思って検索すると店舗が増えていたので大繁盛なのでしょう。
グルメねたは滅多に登場しないこのブログですが、今日は「梅山鉄平食堂」おすすめです。
梅山鉄平食堂 → クリック
2013年12月18日 23:05
『寺もないのに大徳寺焼餅はある!』
樹齢800年と見られる大徳寺の大クス、古い石畳と明治期から続く焼餅屋の菊水。
今年も残すところあとわずか、慌ただしさを忘れゆっくり時が流れる場所へ出かけました。
菊水さんは旧大徳寺跡に1887(明治20)年創業、同跡地に建立された大楠神社や招魂社の参拝者や、近くにある花街丸山のお客や芸者衆などで大いに賑わったそうです。
昔ながらの製法で長崎人に愛される味が今も受け継がれています。
続きを読む
樹齢800年と見られる大徳寺の大クス、古い石畳と明治期から続く焼餅屋の菊水。
今年も残すところあとわずか、慌ただしさを忘れゆっくり時が流れる場所へ出かけました。
菊水さんは旧大徳寺跡に1887(明治20)年創業、同跡地に建立された大楠神社や招魂社の参拝者や、近くにある花街丸山のお客や芸者衆などで大いに賑わったそうです。
昔ながらの製法で長崎人に愛される味が今も受け継がれています。
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2013年01月28日 23:25
撮影日:2013(H25).01.27
『鉱夫達の胃袋を満たしたチャンポン』
長崎にやってきた中国人留学生に、安くて栄養価の高い食事を提供したいという思いから生まれたチャンポン。
そんなチャンポンも所変われば、日々過酷な労働に汗する炭鉱(やま)の男達の胃袋を満たす食事となり、杵島炭鉱のあった武雄市北方周辺では今もその味が受け継がれています。
と言うことで、北方までチャンポンを食べにぶらっと出かけました。
野菜大盛りを注文しました。見た目びっくりしますが、食べ始めると苦にもならず完食です。スープは濃い目、野菜がたっぷりでも味が薄くなることはありません。
武雄へお出かけの際は、是非チャンポンを食べてみてくださいね。
さて、チャンポンだけでは今の北方町周辺に大きな炭鉱があったとは想像もつかないので、杵島炭鉱の遺構を紹介します。
この煉瓦の変電所跡は、大町町に残る杵島炭鉱関連の建造物です。
炭鉱王と呼ばれた地元資産家高取伊好(たかとりこれよし)が、1909(明治42)年、当時北方村大字志久(しく)にあった諸炭鉱を買収統合し、杵島第一坑(本坑)、杵島第二坑とし、本格的開発が始まります。
1919(大正8)年の出炭量58.6万トンは県下の約27%を占め、三菱の相知(おうち)・芳谷(よしたに)の大炭鉱を上回っるほどの勢いがありました。
1929(昭和4)年大町村の佐賀炭鉱を買収して第三坑とし、1918年設立の高取鉱業会社から杵島炭鉱会社と改称し、本拠を北方から大町に移します。
同年には第四坑を開坑、文字どおり県下最大炭鉱となります。
1937(昭和12)年には、佐賀県内出炭髙109万トンのうち83万トンを占め、県下一の大炭鉱として佐賀の産業発展に寄与しました。
1943(昭和18)年には江北(こうほく)村に第五坑を開きます。本拠大町は炭鉱町として急激に発展、50年には人口2万4000人に達する炭都となりました。
そんな大規模な杵島炭鉱でしたが、他の炭鉱と同様にエネルギー革命の波を受け、1969(昭和44)年に閉山、閉山後は大半の人口が流出し、現在は7,000人余の静かな町となっています。
大規模炭鉱だったことから、周辺には遺構がまだまだ眠っているような気配がありました。
少し暖かくなったら、またゆっくり散策してみようと思っています。
『鉱夫達の胃袋を満たしたチャンポン』
長崎にやってきた中国人留学生に、安くて栄養価の高い食事を提供したいという思いから生まれたチャンポン。
そんなチャンポンも所変われば、日々過酷な労働に汗する炭鉱(やま)の男達の胃袋を満たす食事となり、杵島炭鉱のあった武雄市北方周辺では今もその味が受け継がれています。
と言うことで、北方までチャンポンを食べにぶらっと出かけました。
野菜大盛りを注文しました。見た目びっくりしますが、食べ始めると苦にもならず完食です。スープは濃い目、野菜がたっぷりでも味が薄くなることはありません。
武雄へお出かけの際は、是非チャンポンを食べてみてくださいね。
さて、チャンポンだけでは今の北方町周辺に大きな炭鉱があったとは想像もつかないので、杵島炭鉱の遺構を紹介します。
この煉瓦の変電所跡は、大町町に残る杵島炭鉱関連の建造物です。
炭鉱王と呼ばれた地元資産家高取伊好(たかとりこれよし)が、1909(明治42)年、当時北方村大字志久(しく)にあった諸炭鉱を買収統合し、杵島第一坑(本坑)、杵島第二坑とし、本格的開発が始まります。
1919(大正8)年の出炭量58.6万トンは県下の約27%を占め、三菱の相知(おうち)・芳谷(よしたに)の大炭鉱を上回っるほどの勢いがありました。
1929(昭和4)年大町村の佐賀炭鉱を買収して第三坑とし、1918年設立の高取鉱業会社から杵島炭鉱会社と改称し、本拠を北方から大町に移します。
同年には第四坑を開坑、文字どおり県下最大炭鉱となります。
1937(昭和12)年には、佐賀県内出炭髙109万トンのうち83万トンを占め、県下一の大炭鉱として佐賀の産業発展に寄与しました。
1943(昭和18)年には江北(こうほく)村に第五坑を開きます。本拠大町は炭鉱町として急激に発展、50年には人口2万4000人に達する炭都となりました。
そんな大規模な杵島炭鉱でしたが、他の炭鉱と同様にエネルギー革命の波を受け、1969(昭和44)年に閉山、閉山後は大半の人口が流出し、現在は7,000人余の静かな町となっています。
大規模炭鉱だったことから、周辺には遺構がまだまだ眠っているような気配がありました。
少し暖かくなったら、またゆっくり散策してみようと思っています。
2012年11月07日 01:30
撮影日:2012(H24).11.03
『三角屋根の建物は、なぜ人の記憶に強く残るのだろう・・・。』
東彼杵から嬉野方向へ、俵坂峠を越える国道34号線。
まだ高速道路なんてない子供の頃、佐賀の親戚宅に行く際はいつもこの道を通っていました。
(今は通勤に利用していますが・・・)
昼間は緑の山を眺め、夜は真っ暗な道を今も昔も変わることなく走ります。
そんな峠の途中にあるのが「ドライブイン山景」です。
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『三角屋根の建物は、なぜ人の記憶に強く残るのだろう・・・。』
東彼杵から嬉野方向へ、俵坂峠を越える国道34号線。
まだ高速道路なんてない子供の頃、佐賀の親戚宅に行く際はいつもこの道を通っていました。
(今は通勤に利用していますが・・・)
昼間は緑の山を眺め、夜は真っ暗な道を今も昔も変わることなく走ります。
そんな峠の途中にあるのが「ドライブイン山景」です。
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