風景写真
2024年09月04日 17:00
撮影日:2024(R6).08.08
『シュロの樹が点在する南国の町』
旧・長崎県亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎)への進入路です。
いつの間にか進入禁止の鋼製ゲートが設置されてますね。
植物園は昭和44年(1969年)開園、平成29年(2017年)閉園。
閉園の最大理由は園内の地滑り対策が解決できなかったこと、プラス利用者の減でしょうね。
昭和50年(1975年)の航空写真
①が写真一枚目の進入路部分。先に進むと駐車場、植物園内と続く。
ドーム型温室や遊具施設等はまだないようです。
②部分は後年ペンションがあった場所(現在、建物は現存しますが廃墟となっています)。
平成22年(2010年)の航空写真
植物園管理棟はレストランが併設されるなど規模拡大、階段状の滝や噴水、ビニールハウス、大温室、右下には遊具施設など新たに確認できます。
左下隅にペンションが写っています。名前はなんでしたっけ?
植物園を過ぎ、脇岬港を見下ろす高台。
ここには「国民宿舎 亜熱帯」がありました。
今は平屋が二棟、個人所有なのか公的な活用がなされているのか不明です。
シュロの樹が当時の名残りとして残っています。
脇岬港につきました。バス停は「製氷工場前」です。
中央にある看板には「貝の博物館 野母崎マリンランド 喫茶・レストラン・宴会・宿泊」はっきり確認できます。
使用中のバス停よりマリンランドの看板の方が新しく感じられるのは・・・。
こちらの入り口にも看板が残っています。旗ポールの奥に見える建物は水産加工場や製氷工場です。
駐車場は廃船や資材置き場となっています。
マリンランド本体も解体により建物の一部を残すのみです。
昭和50年(1975年)の航空写真
梅の花のような形をした建物があったんですね。
上部には「国民宿舎 亜熱帯」が写っています。
地磯だった海岸線は海浜公園として整備されています。
野母崎三和漁協活魚流通センターの港
比較的大きな船が出入りしています。
流通センターは生簀水槽がたくさん並んでいて、活魚の購入や地方発送をやっています。
樺島方向に少し進んだ港です。
ゴマ豆腐が有名な「観月」、出来立ての蒲鉾を販売する「緒方蒲鉾店」がある港です。
港の中も透明度が高いきれいな海です!
熱帯魚のような蛍光色の青い小魚がたくさん群れていました。
もう9月になりましたが、しばらく8月の海岸シリーズが続きます。
※航空写真は国土地理院 航空写真閲覧サービスより引用。
9/16 写真3枚追加しました。
『シュロの樹が点在する南国の町』
旧・長崎県亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎)への進入路です。
いつの間にか進入禁止の鋼製ゲートが設置されてますね。
植物園は昭和44年(1969年)開園、平成29年(2017年)閉園。
閉園の最大理由は園内の地滑り対策が解決できなかったこと、プラス利用者の減でしょうね。
昭和50年(1975年)の航空写真
①が写真一枚目の進入路部分。先に進むと駐車場、植物園内と続く。
ドーム型温室や遊具施設等はまだないようです。
②部分は後年ペンションがあった場所(現在、建物は現存しますが廃墟となっています)。
平成22年(2010年)の航空写真
植物園管理棟はレストランが併設されるなど規模拡大、階段状の滝や噴水、ビニールハウス、大温室、右下には遊具施設など新たに確認できます。
左下隅にペンションが写っています。名前はなんでしたっけ?
植物園を過ぎ、脇岬港を見下ろす高台。
ここには「国民宿舎 亜熱帯」がありました。
今は平屋が二棟、個人所有なのか公的な活用がなされているのか不明です。
シュロの樹が当時の名残りとして残っています。
脇岬港につきました。バス停は「製氷工場前」です。
中央にある看板には「貝の博物館 野母崎マリンランド 喫茶・レストラン・宴会・宿泊」はっきり確認できます。
使用中のバス停よりマリンランドの看板の方が新しく感じられるのは・・・。
こちらの入り口にも看板が残っています。旗ポールの奥に見える建物は水産加工場や製氷工場です。
駐車場は廃船や資材置き場となっています。
マリンランド本体も解体により建物の一部を残すのみです。
昭和50年(1975年)の航空写真
梅の花のような形をした建物があったんですね。
上部には「国民宿舎 亜熱帯」が写っています。
地磯だった海岸線は海浜公園として整備されています。
野母崎三和漁協活魚流通センターの港
比較的大きな船が出入りしています。
流通センターは生簀水槽がたくさん並んでいて、活魚の購入や地方発送をやっています。
樺島方向に少し進んだ港です。
ゴマ豆腐が有名な「観月」、出来立ての蒲鉾を販売する「緒方蒲鉾店」がある港です。
港の中も透明度が高いきれいな海です!
熱帯魚のような蛍光色の青い小魚がたくさん群れていました。
もう9月になりましたが、しばらく8月の海岸シリーズが続きます。
※航空写真は国土地理院 航空写真閲覧サービスより引用。
9/16 写真3枚追加しました。
2024年08月26日 12:00
撮影日:2024(R6).08.08
『暑過ぎてだれもいない・・・?』
シーズンの行楽 夏 納涼
海水浴 「川原」 西彼三和町
長崎バス、大波止より60分 松林の中に、大蛇の伝説で有名な川原池と海水浴場に分れ、特に海辺の蛇紋石が美しい。7月上旬から9月上旬まで。
昭和41年(1966年)7月1日 発行の「長崎への招待」第2版より引用)
蛇紋岩はかんらん岩が水を含んで変質してできた濃緑色の岩石。
川原本村海浜と川原海水浴場一帯はこの蛇紋岩の礫だけでなる円礫浜は日本でも珍しく貴重なものだそうです。
下の写真は前回記事の本村海岸、クリックして拡大すると丸い石が堆積していることが分かります。
川原海水浴場。潮が引くと円礫が現れます。
砂と円礫が入り混じっている状態です。
野母崎側の堤防は良型が上がる釣り場、いつも釣り人で賑わっています。
右側には区画された無料(要申請)のキャンプ場があります。
やっと海水浴場らしい売店や遊具の貸し出しを見つけました!
昭和50年(1975年)の航空写真を見ると10棟ほどの桟敷が並び、人気の海水浴場だったことが分かります。
(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)
池の御前神社 海側から一の鳥居と二の鳥居
大池側に振り返り三の鳥居と奥に社殿
社殿は建て替えられまだ新しい。祭神は豊玉比古命、豊玉比売命。
由緒は当地の領主・河原大蔵太夫高満が正暦5年(994年)11月に愛娘阿池(おち)姫の冥福を祈念するために建立したという伝説があります。
木製の表示板は趣がありますね。
以下、阿池姫伝説の詳細説明板
川原大池は広さ約13ha、周囲約1.9km、最大水深約9mの県内最大の天然湖。
海水浴場に人影はなく、子供たちの声がこだまする林間学校、臨海学校としての賑わいも遠い昔の思い出となりました。
蛇紋石の崖や大岩はここより野母側、川原木場の海岸に在るのでいつか立ち寄りたいと思います。
次回は野母崎です!
『暑過ぎてだれもいない・・・?』
シーズンの行楽 夏 納涼
海水浴 「川原」 西彼三和町
長崎バス、大波止より60分 松林の中に、大蛇の伝説で有名な川原池と海水浴場に分れ、特に海辺の蛇紋石が美しい。7月上旬から9月上旬まで。
昭和41年(1966年)7月1日 発行の「長崎への招待」第2版より引用)
蛇紋岩はかんらん岩が水を含んで変質してできた濃緑色の岩石。
川原本村海浜と川原海水浴場一帯はこの蛇紋岩の礫だけでなる円礫浜は日本でも珍しく貴重なものだそうです。
下の写真は前回記事の本村海岸、クリックして拡大すると丸い石が堆積していることが分かります。
川原海水浴場。潮が引くと円礫が現れます。
砂と円礫が入り混じっている状態です。
野母崎側の堤防は良型が上がる釣り場、いつも釣り人で賑わっています。
右側には区画された無料(要申請)のキャンプ場があります。
やっと海水浴場らしい売店や遊具の貸し出しを見つけました!
昭和50年(1975年)の航空写真を見ると10棟ほどの桟敷が並び、人気の海水浴場だったことが分かります。
(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)
池の御前神社 海側から一の鳥居と二の鳥居
大池側に振り返り三の鳥居と奥に社殿
社殿は建て替えられまだ新しい。祭神は豊玉比古命、豊玉比売命。
由緒は当地の領主・河原大蔵太夫高満が正暦5年(994年)11月に愛娘阿池(おち)姫の冥福を祈念するために建立したという伝説があります。
木製の表示板は趣がありますね。
以下、阿池姫伝説の詳細説明板
川原大池は広さ約13ha、周囲約1.9km、最大水深約9mの県内最大の天然湖。
海水浴場に人影はなく、子供たちの声がこだまする林間学校、臨海学校としての賑わいも遠い昔の思い出となりました。
蛇紋石の崖や大岩はここより野母側、川原木場の海岸に在るのでいつか立ち寄りたいと思います。
次回は野母崎です!
2024年08月23日 12:00
撮影日:2024(R6).08.08
『現在、西彼杵郡に属する町は?』
今日は「為石町の海岸」です。
千々町を過ぎると県道は見通しの良い二車線に変わります。お隣りの「藤田尾町」には立ち寄らず、為石町に向かいます。
メボシ崎手前から見る天草灘です。
為石町は昭和30年(1955年)に蚊焼村、川原村、為石村の三村が合併して、長崎県西彼杵郡三和町(さんわちょう)となりました。
その後50年を経た平成17年(2005年)、三和町は長崎市に編入されたため自治体としては消滅しています。
旧三和町周辺には「三和体育館」、「三和交番」、「長崎市立三和中学校」、「三和中央病院」など「三和」の名称がある施設が今も複数残っています。
また、こことは別に昭和24年(1949年)土井の首の一部が同じ名前の三和町になっています。こちらは土井部落、上郷部落、迫部落が合併して三和町となり現在に至ります。
中央右の白い2階建ては「為石地区公民館」、右上の白い大きな建物は「為石小学校」、左端にある大きな建物は「長崎市営須浜住宅」です。
須浜住宅は海に面し、弧を描いたモダンな構造になっています。為石漁港も隣接しています。
為石漁港を通過し、川原本村の海岸です。
明治期、西彼杵郡の群域は長崎市の大部分、諫早市の一部、西海市の全域をカバーする広い範囲でした。
現在、西彼杵郡は長与町、時津町のみが単独で行政を行っています。
次はお隣りの川原海水浴場です。
『現在、西彼杵郡に属する町は?』
今日は「為石町の海岸」です。
千々町を過ぎると県道は見通しの良い二車線に変わります。お隣りの「藤田尾町」には立ち寄らず、為石町に向かいます。
メボシ崎手前から見る天草灘です。
為石町は昭和30年(1955年)に蚊焼村、川原村、為石村の三村が合併して、長崎県西彼杵郡三和町(さんわちょう)となりました。
その後50年を経た平成17年(2005年)、三和町は長崎市に編入されたため自治体としては消滅しています。
旧三和町周辺には「三和体育館」、「三和交番」、「長崎市立三和中学校」、「三和中央病院」など「三和」の名称がある施設が今も複数残っています。
また、こことは別に昭和24年(1949年)土井の首の一部が同じ名前の三和町になっています。こちらは土井部落、上郷部落、迫部落が合併して三和町となり現在に至ります。
中央右の白い2階建ては「為石地区公民館」、右上の白い大きな建物は「為石小学校」、左端にある大きな建物は「長崎市営須浜住宅」です。
須浜住宅は海に面し、弧を描いたモダンな構造になっています。為石漁港も隣接しています。
為石漁港を通過し、川原本村の海岸です。
明治期、西彼杵郡の群域は長崎市の大部分、諫早市の一部、西海市の全域をカバーする広い範囲でした。
現在、西彼杵郡は長与町、時津町のみが単独で行政を行っています。
次はお隣りの川原海水浴場です。
2024年08月21日 17:24
撮影日:2024(R6).08.08
『個人的におすすめのビーチ』
今日は「千々町の海岸」です。
Googleマップでは海岸になんの表記もありませんが、Yahoo地図では「千々海水浴場」と表示されています。記憶の中で「海水浴場」と呼んでいたことは間違っていなかったようです。桟敷等の施設があったかは定かではありませんが・・・。
入江には2か所の消波ブロックが設置されています。野母崎方向。
砂と石が混ざり合った浜になっています。茂木方向。
振り返ると「猿岳」、山容がいいですね。
猿岳は秋葉山とも呼ばれ、岩崖の上には猿田彦大明神や秋葉権現が祭られた信仰の山です。
千々川が流れ込んでいます。
海岸線に沿って道路が延びているので行ってみます!
大物が狙えそうな地磯が広がっています。
穴釣りも楽しめそうです。地磯の先には砂浜が見えます。
細かな粒のきれいな砂浜が広がっています。
行き止まりから振り返ります。
訪れる人も少なくプライベートビーチ的な感じで楽しめそうですね。
千々町の扇状地は広く、まとまった集落が形成されています。
次回は為石海岸へと続きます。
『個人的におすすめのビーチ』
今日は「千々町の海岸」です。
Googleマップでは海岸になんの表記もありませんが、Yahoo地図では「千々海水浴場」と表示されています。記憶の中で「海水浴場」と呼んでいたことは間違っていなかったようです。桟敷等の施設があったかは定かではありませんが・・・。
入江には2か所の消波ブロックが設置されています。野母崎方向。
砂と石が混ざり合った浜になっています。茂木方向。
振り返ると「猿岳」、山容がいいですね。
猿岳は秋葉山とも呼ばれ、岩崖の上には猿田彦大明神や秋葉権現が祭られた信仰の山です。
千々川が流れ込んでいます。
海岸線に沿って道路が延びているので行ってみます!
大物が狙えそうな地磯が広がっています。
穴釣りも楽しめそうです。地磯の先には砂浜が見えます。
細かな粒のきれいな砂浜が広がっています。
行き止まりから振り返ります。
訪れる人も少なくプライベートビーチ的な感じで楽しめそうですね。
千々町の扇状地は広く、まとまった集落が形成されています。
次回は為石海岸へと続きます。
2024年08月20日 22:34
撮影日:2024(R6).08.08
『前からバスが来ませんように・・・』
今日は「大崎町の海岸」です。
県道34号、宮摺から大崎・千々までは1.5車線程度の狭い道が続き、見通しの悪いカーブが連続します。
今でこそ県道は網場町から野母崎町まで繋がっていますが、宮摺から大崎・千々間の道路は昭和36年(1961年)から5年間かけ林道を整備し、昭和46 年(1971年)に県道となっています。
建設省の主要地方道としての指定も平成5年(1993年)なので道路としての歴史は古くありません。
今も拡幅工事や災害復旧工事が行われていることから、いかに急峻な斜面での道路整備が困難であるかを知ることができます。
では、道路が整備される前の交通手段は、昭和初期には茂木と大崎・千々間に5.6トンの発動機船1隻が人だけでなく日用品や農産物、農業資材などを運んでいたそうです。
昭和29年(1954年)に「茂木交通有限会社」が設立され、5.6 トンの発動機船 3 隻が、茂木~大崎~千々(乗降客の有る場合、宮摺にも寄港する。)に1日3回運航され、茂木港からの時間・運賃は、宮摺20分20円、大崎30分40円、千々40分50円であったと記録されています。
さらに千々から、藤田尾、為石、樺島への航路があったことから、野母半島の千々石湾(橘湾)沿岸の集落は船を交通手段とする陸の孤島だったことが分かります。
※茂木支所作成「茂木のあゆみ」より引用
後のバス路線の拡大は昭和39年(1964年)11月 2日 宮摺~大崎 、昭和43年(1968年)11月 11日 大崎~千々と記録されています。
それでは県道から大崎町集落の狭く急な坂を下って海岸に向かいます。
訪れた時はちょうど満潮時でした。
干潮になると堤防下にはきれいな砂浜が現れます。
反対側(宮摺方向)の堤防の奥には満潮時でも砂浜があることが確認できます。
職場の野球チームで一晩キャンプに来たのは大崎海岸だったような・・・。
バカ騒ぎした遠い昔の楽しい夜をふと思い出しました。
次回は千々です!
※写真はクリックすると拡大できます。
『前からバスが来ませんように・・・』
今日は「大崎町の海岸」です。
県道34号、宮摺から大崎・千々までは1.5車線程度の狭い道が続き、見通しの悪いカーブが連続します。
今でこそ県道は網場町から野母崎町まで繋がっていますが、宮摺から大崎・千々間の道路は昭和36年(1961年)から5年間かけ林道を整備し、昭和46 年(1971年)に県道となっています。
建設省の主要地方道としての指定も平成5年(1993年)なので道路としての歴史は古くありません。
今も拡幅工事や災害復旧工事が行われていることから、いかに急峻な斜面での道路整備が困難であるかを知ることができます。
では、道路が整備される前の交通手段は、昭和初期には茂木と大崎・千々間に5.6トンの発動機船1隻が人だけでなく日用品や農産物、農業資材などを運んでいたそうです。
昭和29年(1954年)に「茂木交通有限会社」が設立され、5.6 トンの発動機船 3 隻が、茂木~大崎~千々(乗降客の有る場合、宮摺にも寄港する。)に1日3回運航され、茂木港からの時間・運賃は、宮摺20分20円、大崎30分40円、千々40分50円であったと記録されています。
さらに千々から、藤田尾、為石、樺島への航路があったことから、野母半島の千々石湾(橘湾)沿岸の集落は船を交通手段とする陸の孤島だったことが分かります。
※茂木支所作成「茂木のあゆみ」より引用
後のバス路線の拡大は昭和39年(1964年)11月 2日 宮摺~大崎 、昭和43年(1968年)11月 11日 大崎~千々と記録されています。
それでは県道から大崎町集落の狭く急な坂を下って海岸に向かいます。
訪れた時はちょうど満潮時でした。
干潮になると堤防下にはきれいな砂浜が現れます。
反対側(宮摺方向)の堤防の奥には満潮時でも砂浜があることが確認できます。
職場の野球チームで一晩キャンプに来たのは大崎海岸だったような・・・。
バカ騒ぎした遠い昔の楽しい夜をふと思い出しました。
次回は千々です!
※写真はクリックすると拡大できます。