原子爆弾のこと
2011年08月11日 01:00
撮影日:2011(H23).08.09
『たいまつ行列と被爆マリア像』
昼間の式典が終わり、平和公園を訪れる人も少なくなった19時過ぎ、カトリック信徒約1000人による平和を祈念するたいまつ行列が浦上天主堂を目指して歩き始めます。
行列の先頭で聖座に乗せられているのは、、原爆によって全壊した旧浦上天主堂の瓦礫の中から奇跡的に発見された「無原罪の聖母像」の頭部です。

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『たいまつ行列と被爆マリア像』
昼間の式典が終わり、平和公園を訪れる人も少なくなった19時過ぎ、カトリック信徒約1000人による平和を祈念するたいまつ行列が浦上天主堂を目指して歩き始めます。
行列の先頭で聖座に乗せられているのは、、原爆によって全壊した旧浦上天主堂の瓦礫の中から奇跡的に発見された「無原罪の聖母像」の頭部です。

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2011年08月09日 23:30
撮影日:2011(H23).08.09
『 Ground zero 』
1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、連合国アメリカの爆撃機B29ボックスカーから投下されたプルトニュウム原子爆弾(ファットマン)が、原爆落下中心地を示す黒御影石の上空約500メートルで爆発。
超高温の熱線、多量の放射線と強い爆風は、この一帯のあらゆるものを破壊し、焼きつくした。
今日まで原爆による死没者の総数は、15万5千人を超える。

原爆落下中心碑の側には、この地より北東に約500メートル離れた丘に建っていた浦上天主堂の壁の一部が移築保存されている。


二度と原爆を使ってはならない。
長崎で生まれた人間として、核兵器廃絶に向かって強い意志を持つこと、行動する責任があることを改めて感じた8月9日。
『 Ground zero 』
1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、連合国アメリカの爆撃機B29ボックスカーから投下されたプルトニュウム原子爆弾(ファットマン)が、原爆落下中心地を示す黒御影石の上空約500メートルで爆発。
超高温の熱線、多量の放射線と強い爆風は、この一帯のあらゆるものを破壊し、焼きつくした。
今日まで原爆による死没者の総数は、15万5千人を超える。

原爆落下中心碑の側には、この地より北東に約500メートル離れた丘に建っていた浦上天主堂の壁の一部が移築保存されている。


二度と原爆を使ってはならない。
長崎で生まれた人間として、核兵器廃絶に向かって強い意志を持つこと、行動する責任があることを改めて感じた8月9日。
2010年08月09日 23:26
『羅漢さまは見ていた・・・』
65年前の1945年8月9日、午前11時2分。
プルトニウム型原子爆弾が長崎に投下された。
女子挺身隊として、松山町の三菱兵器工場に毎日通っていた妻の母は、たまたま家族の具合が悪く、作業を休み東小島の自宅にいた。
運命の11時02分、玄関外に居た母は閃光を見る。
空は夕日のようなオレンジ色に染まり、その直後、爆風により体は大きく飛ばされた。
気がつくと体には割れたガラス片がいくつも刺さっていたが、幸いにも命に関わるような大きな怪我もなく、今も元気に暮らしている。
いつものように兵器工場で働いていた多くの同僚、友人が、若い命を一瞬にして奪われたことは言うまでもない。
命拾いなんて、「たまたま、偶然、・・・」そんな非日常な、ちっぽけな出来事が発端なのかもしれない。

筑後町にある「福済寺」は1826年に建立、崇福寺・興福寺とともに長崎三福寺と呼ばれ、大雄宝殿(=本殿)ほか多くの建物が旧国宝に指定されていたが、原爆によって全焼した。
市内で最後まで燃えていたのは、福済寺であったと言われている。
福済寺に行くとひとりの羅漢さまが片ひざを抱え、目を見開き空を眺めている。
あの日も同じように空を眺め、雲の隙間から落ちてくる不思議な物体を見ていた。
悟りを開いた羅漢さまであっても、その後の地獄絵図を知っていたのだろうか・・・。
物言わぬ生き証人の羅漢さまは、今日も静かに空を眺めている。

今日は原爆の日、犠牲となられた多くの方々のご冥福を祈り、核兵器廃絶。そして何より年寄りも子供も、笑顔で暮らせる社会となることを願いたい。
11時2分 福岡より西の空に向かって黙祷した。
(羅漢さまの写真は、以前撮っていたものです)
65年前の1945年8月9日、午前11時2分。
プルトニウム型原子爆弾が長崎に投下された。
女子挺身隊として、松山町の三菱兵器工場に毎日通っていた妻の母は、たまたま家族の具合が悪く、作業を休み東小島の自宅にいた。
運命の11時02分、玄関外に居た母は閃光を見る。
空は夕日のようなオレンジ色に染まり、その直後、爆風により体は大きく飛ばされた。
気がつくと体には割れたガラス片がいくつも刺さっていたが、幸いにも命に関わるような大きな怪我もなく、今も元気に暮らしている。
いつものように兵器工場で働いていた多くの同僚、友人が、若い命を一瞬にして奪われたことは言うまでもない。
命拾いなんて、「たまたま、偶然、・・・」そんな非日常な、ちっぽけな出来事が発端なのかもしれない。

筑後町にある「福済寺」は1826年に建立、崇福寺・興福寺とともに長崎三福寺と呼ばれ、大雄宝殿(=本殿)ほか多くの建物が旧国宝に指定されていたが、原爆によって全焼した。
市内で最後まで燃えていたのは、福済寺であったと言われている。
福済寺に行くとひとりの羅漢さまが片ひざを抱え、目を見開き空を眺めている。
あの日も同じように空を眺め、雲の隙間から落ちてくる不思議な物体を見ていた。
悟りを開いた羅漢さまであっても、その後の地獄絵図を知っていたのだろうか・・・。
物言わぬ生き証人の羅漢さまは、今日も静かに空を眺めている。

今日は原爆の日、犠牲となられた多くの方々のご冥福を祈り、核兵器廃絶。そして何より年寄りも子供も、笑顔で暮らせる社会となることを願いたい。
11時2分 福岡より西の空に向かって黙祷した。
(羅漢さまの写真は、以前撮っていたものです)
2009年08月14日 01:03
※数日前よりブログ運営者様のシステム障害により、投稿済の記事消去、記事・コメントの新規更新が出来ない状況になっておりましたことお詫び申し上げます。
消えた記事を思い出しながら、再度更新させていただきます。
「ピカドンと浦上天主堂」
「私の顔や手をよく見てください。よく見てください。世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、 子どもたちに、私たちのようにこのような被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ1人たりとも許してはならないのであります。 核兵器による死と苦しみは私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約してくださるよう心からお願いをいたします。
私ども被爆者は訴えます。命のある限り私は訴え続けます。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ、ありがとうございました。」

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消えた記事を思い出しながら、再度更新させていただきます。
「ピカドンと浦上天主堂」
「私の顔や手をよく見てください。よく見てください。世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、 子どもたちに、私たちのようにこのような被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ1人たりとも許してはならないのであります。 核兵器による死と苦しみは私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約してくださるよう心からお願いをいたします。
私ども被爆者は訴えます。命のある限り私は訴え続けます。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ、ありがとうございました。」
(1982年国連軍縮特別総会 反核平和運動家である被爆者山口仙二氏の演説より)

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2008年08月08日 12:01
明日は8月9日
長崎で育った人間であれば、8月9日と言えば「原爆の日たい!」と答えられると思っています。
昭和20年8月6日午前8時15分、広島に人類史上初めての原子爆弾(ウラニウム型)が投下され、十数万人の人達が亡くなり、同年8月9日午前11時2分、長崎に二つ目の原子爆弾(プルトニウム型)が投下され、7万数千人の人達が亡くなり、今なお放射線障害の後遺症に苦しむ高齢者が多くいます。
長崎では夏休み期間中の8月9日は登校日となっています。子供の頃、毎年毎年原子爆弾の恐ろしさや戦争の愚かさを学習し、11時2分になると市内一斉に鳴り響くサイレンに合わせ1分間の黙祷をすることがつまらく、早く下校することばかり考えていました。
でも、大人になった今、それも長崎を離れて暮らしていても8月9日はしっかり心に刻まれ、「明日は(今日は)原爆の日だ」と意識することができる。
近年、長崎に住む人でさえ原子爆弾の投下された日時を正しく答えられない人が増えてきていると聞く。
何が平和教育なのか?といった堅苦しい議論は抜きにして、忘れてはいけないこと、伝えていかなければならないことはちゃんと残して欲しい。原爆投下を「しょうがない」と語った長崎選出の恥ずべき大臣もいますが、私たち長崎人は忘れることを「しょうがないさ」と一言で片付けてはいけないと思います。
久しぶりに平和公園を訪れると、高校生達が非核平和の署名活動を 炎天下明るい表情で呼びかけていました。
「ご苦労さま、頑張ってね!」と声をかけ署名をすると、「ありがとうございました」と元気な挨拶が返ってきました。まだまだ、今時の若者も捨てたもんじゃありませんね。
明日の11時2分、私も忘れずに黙祷したいと思います。




長崎で育った人間であれば、8月9日と言えば「原爆の日たい!」と答えられると思っています。
昭和20年8月6日午前8時15分、広島に人類史上初めての原子爆弾(ウラニウム型)が投下され、十数万人の人達が亡くなり、同年8月9日午前11時2分、長崎に二つ目の原子爆弾(プルトニウム型)が投下され、7万数千人の人達が亡くなり、今なお放射線障害の後遺症に苦しむ高齢者が多くいます。
長崎では夏休み期間中の8月9日は登校日となっています。子供の頃、毎年毎年原子爆弾の恐ろしさや戦争の愚かさを学習し、11時2分になると市内一斉に鳴り響くサイレンに合わせ1分間の黙祷をすることがつまらく、早く下校することばかり考えていました。
でも、大人になった今、それも長崎を離れて暮らしていても8月9日はしっかり心に刻まれ、「明日は(今日は)原爆の日だ」と意識することができる。
近年、長崎に住む人でさえ原子爆弾の投下された日時を正しく答えられない人が増えてきていると聞く。
何が平和教育なのか?といった堅苦しい議論は抜きにして、忘れてはいけないこと、伝えていかなければならないことはちゃんと残して欲しい。原爆投下を「しょうがない」と語った長崎選出の恥ずべき大臣もいますが、私たち長崎人は忘れることを「しょうがないさ」と一言で片付けてはいけないと思います。
久しぶりに平和公園を訪れると、高校生達が非核平和の署名活動を 炎天下明るい表情で呼びかけていました。
「ご苦労さま、頑張ってね!」と声をかけ署名をすると、「ありがとうございました」と元気な挨拶が返ってきました。まだまだ、今時の若者も捨てたもんじゃありませんね。
明日の11時2分、私も忘れずに黙祷したいと思います。



