2023年08月28日 12:00
松島周遊④・世界一小さな公園と松島炭鉱第4坑跡(西海市大瀬戸町松島)
撮影日:2022(R4).05.08
『今なお海底深く眠る犠牲者に祈りを捧げる』
今回の報告は観光パンフレットに赤い丸で示した「世界一小さな公園」と「松島炭鉱第4坑跡」周辺です。
※パンフ、写真はクリックすると拡大できます。
「世界一小さな公園」です。白い柵で囲まれた中に木製ベンチとシュロの樹。
ベンチに腰掛け海原を眺めながらをぼんやり休憩。小さな公園ですが贅沢な気分に浸れます。
以前に比べ元気のないシュロの樹が気になります・・・。
小さな公園から前回紹介した方向を眺め、地名を記入しました。
松島炭鉱第4坑跡の前にちょっと「謎の遺構」を覗いてみます!
『今なお海底深く眠る犠牲者に祈りを捧げる』
今回の報告は観光パンフレットに赤い丸で示した「世界一小さな公園」と「松島炭鉱第4坑跡」周辺です。
※パンフ、写真はクリックすると拡大できます。
「世界一小さな公園」です。白い柵で囲まれた中に木製ベンチとシュロの樹。
ベンチに腰掛け海原を眺めながらをぼんやり休憩。小さな公園ですが贅沢な気分に浸れます。
以前に比べ元気のないシュロの樹が気になります・・・。
小さな公園から前回紹介した方向を眺め、地名を記入しました。
松島炭鉱第4坑跡の前にちょっと「謎の遺構」を覗いてみます!
「謎の遺構」が何であるか今だ判明しません。
戦争遺構、炭坑遺構、焼却施設などと言われていますが、ネット検索してもなかなか判明しません。
以前、西海市に問い合わせたところ、詳細確認の電話はありましたが回答は未だかつてありません。
私の中では「謎の遺構」のままです。
海岸線の少し飛び出た岩の上に遺構は造られています。
岩に乗せるように基礎を作ったような感じです。
岩との隙間をコンクリートで塞いだようになっています。
何かを通した(流した)ような配管跡が残っています。
真下(底)は波が打ち寄せます。
開口部から上部を見上げた画像です。
天井アーチは鉄筋が入っているようです。天井にも開口があります。
開口部から正面の画像です。
岩の上に密閉し上手く乗っかっている感じです。
中空に床があった痕跡はないようですが・・・。
開口部から底を覗き込んだ画像です。
深さは結構あります、這い上がれない感じです。底は平らです。
現在は隙間から海水(波)が流入しますが、元々は塞がっていたのかも知れません。
謎の遺構がある海岸線(道路下)はやはりボタが堆積しています。
海岸には貝の化石ではないかと思われるような、変わった紋様の石が転がっていました。
4坑跡地に向かいます。池島が良く見えます。
この美しい海原の底深くには西彼杵炭田と呼ばれる石炭層が存在し、高島、崎戸、端島、松島、大島、池島などに多くの炭鉱がありました。
「松島炭鉱第4坑」跡地です。
左前の建物は守衛室、右前は新しく出来た弔魂碑、左奥の建物は変電所跡、右奥のレンガ遺構は立坑櫓の機械室跡です。
分かりやすい案内板ですね!
松島炭鉱の操業は1913年(大正2年)から1935年(昭和10年)の僅か22年間でした。
今は建屋周囲にフェンスが設置されていました。写真付きの説明板も設置されています。
中央はフェンスに囲まれた立坑跡、コンクリートで封鎖されています。
左は1935年(昭和9年)の事故で亡くなられた54名の方々を祀る「宝篋印塔」。
この宝篋印塔は事故後に建てられた弔魂碑が時代と共に忘れ去られ、雑草の生い茂る荒れ地となったことに心を痛めた島原の中川雲女香先生が私財を投じ、1984年(昭和59年)に建立されたものです。宝篋印塔には「五十四体 供養塔」と犠牲者のお名前が刻まれれています。
事故後、最初に建てられた弔魂碑(2008年撮影画像)。
道路上部にあります。
以前は藪に覆われ見ることができなかった遺構が整地され姿を現しています。
絡みついた大きな木の根が埋もれた時間を感じさせます。
第4坑には2つの立坑櫓があったことが古写真で確認できます。これに関係するものと思われます。
傍にはコンクリートで封鎖された立坑があります。
当時数多く用いられたレンガ建築、規模の大小、目的に関わらずどれを見ても魅了的です。
道路から撮った上からの画像です。
当時の写真と比較すると位置関係が分かります。
立坑が2つありますね。
周辺の畑にも炭鉱時代の四角いコンクリートの電柱が残っています。
今回も盛りだくさんの画像でしたが、海底炭坑における突然の出水による坑道落盤そして水没、逃げだすことも助けに行くこともできず今なお多くの方々が冷たい水の中で眠っている歴史を忘れてはいけません。合掌。
戦争遺構、炭坑遺構、焼却施設などと言われていますが、ネット検索してもなかなか判明しません。
以前、西海市に問い合わせたところ、詳細確認の電話はありましたが回答は未だかつてありません。
私の中では「謎の遺構」のままです。
海岸線の少し飛び出た岩の上に遺構は造られています。
岩に乗せるように基礎を作ったような感じです。
岩との隙間をコンクリートで塞いだようになっています。
何かを通した(流した)ような配管跡が残っています。
真下(底)は波が打ち寄せます。
開口部から上部を見上げた画像です。
天井アーチは鉄筋が入っているようです。天井にも開口があります。
開口部から正面の画像です。
岩の上に密閉し上手く乗っかっている感じです。
中空に床があった痕跡はないようですが・・・。
開口部から底を覗き込んだ画像です。
深さは結構あります、這い上がれない感じです。底は平らです。
現在は隙間から海水(波)が流入しますが、元々は塞がっていたのかも知れません。
謎の遺構がある海岸線(道路下)はやはりボタが堆積しています。
海岸には貝の化石ではないかと思われるような、変わった紋様の石が転がっていました。
4坑跡地に向かいます。池島が良く見えます。
この美しい海原の底深くには西彼杵炭田と呼ばれる石炭層が存在し、高島、崎戸、端島、松島、大島、池島などに多くの炭鉱がありました。
「松島炭鉱第4坑」跡地です。
左前の建物は守衛室、右前は新しく出来た弔魂碑、左奥の建物は変電所跡、右奥のレンガ遺構は立坑櫓の機械室跡です。
分かりやすい案内板ですね!
松島炭鉱の操業は1913年(大正2年)から1935年(昭和10年)の僅か22年間でした。
今は建屋周囲にフェンスが設置されていました。写真付きの説明板も設置されています。
中央はフェンスに囲まれた立坑跡、コンクリートで封鎖されています。
左は1935年(昭和9年)の事故で亡くなられた54名の方々を祀る「宝篋印塔」。
この宝篋印塔は事故後に建てられた弔魂碑が時代と共に忘れ去られ、雑草の生い茂る荒れ地となったことに心を痛めた島原の中川雲女香先生が私財を投じ、1984年(昭和59年)に建立されたものです。宝篋印塔には「五十四体 供養塔」と犠牲者のお名前が刻まれれています。
事故後、最初に建てられた弔魂碑(2008年撮影画像)。
道路上部にあります。
以前は藪に覆われ見ることができなかった遺構が整地され姿を現しています。
絡みついた大きな木の根が埋もれた時間を感じさせます。
第4坑には2つの立坑櫓があったことが古写真で確認できます。これに関係するものと思われます。
傍にはコンクリートで封鎖された立坑があります。
当時数多く用いられたレンガ建築、規模の大小、目的に関わらずどれを見ても魅了的です。
道路から撮った上からの画像です。
当時の写真と比較すると位置関係が分かります。
立坑が2つありますね。
周辺の畑にも炭鉱時代の四角いコンクリートの電柱が残っています。
今回も盛りだくさんの画像でしたが、海底炭坑における突然の出水による坑道落盤そして水没、逃げだすことも助けに行くこともできず今なお多くの方々が冷たい水の中で眠っている歴史を忘れてはいけません。合掌。