2021年12月13日 12:00
枇杷崎射堡基地(長崎市太田尾町)
撮影日:2021(R3).12.05
撮影日:2012(H24).05.19
『橘湾に敵艦見ゆ』
80年前の12月8日は、太平洋戦争の契機となったハワイ真珠湾攻撃があった日でした。
ニュースやテレビ番組で当時の証言や映像をご覧になられた方も多かったのではないでしょうか。
さて、今回は久しぶりに戦争遺構の話、長崎市太田尾町に残る「枇杷崎射堡(しゃほ)基地」について報告します。
まず、「射堡」とは、海上の敵艦に対し陸上に格納している魚雷を発射し攻撃する施設のことです。
魚雷を海岸線の崖などをくり貫いた壕に格納し、指揮所からの命により海面へ敷設したレールで運搬し、圧縮空気によって発射するとされています。
射堡は戦況の悪化に伴い計画された「震洋」、「蛟竜」、「海龍」などの特攻作戦と同様に配置されたようです。
戦史には「〇〇射堡隊」といった部隊が存在するので、それ相応の設備や兵員が配置されていたようですが、詳細な調査報告がなく「射堡」についてはよく分からないのが現状です。
「枇杷崎射堡基地」と言われる魚雷格納庫(壕)等は、上の写真の赤部分に存在します。
子供の頃から磯遊びや魚釣りで太田尾を訪れるたびに、海岸に残るコンクリートや台座と配管、崖に掘られた穴がずっと気になっていましたが、近年のネット情報によりこれが「射堡」であることを知ることができました。
それでは、現在と過去撮った写真で「枇杷崎射堡基地」を見ていきたいと思います。
堤防先端から海岸に下りるとコンクリートで固めた歩道のような部分があります。
ここには後ほど出てくる圧縮空気の配管が埋設されているものと考えられます。
振り返るとこのような感じです。子供の頃から変わりません。
藪の中には関連する設備や建物の痕跡は何もありません。
崖の先端を取り巻くように続いています。歩く際には便利です。
裏側の海岸に出ました。土地は崖側は平ら、海面側は下がっています。
昔は崖側にコンクリート台座と配管がありましたが・・・。
さらに枇杷崎に向かって進みます。どこにでもある海岸です。
よく観察すると崩れたコンクリートの塊が転がっています。
これは四角い原型を留めている台座。
さらに進むと崖にある壕が見えてきます。
中は広くゴミも投棄されていません。大きな崩落も無く、奥行きは20m近くあります。
入口や内部をコンクリートで固めたような跡は、はっきりと確認できません。
ネットや資料によると壕は5つと記されていますが、4つは確認しました。
ほぼ等間隔で並んでいます。
ここからは過去(2012年)撮った写真です。
壕の状態は今とほとんど変わりませんが、撮影時には人為的にリュウゼツランや花が植えてあります。
誰かが隠れ家として使っているような感じでした。
壕の海面側に大きなコンクリートの塊がありましたが、現在は確認できません。
今はないコンクリート台座と配管がひと昔前にはありました。。
子供心にも一体何だろうと思わせる興味津々の残骸でした。
1948年の航空写真(国土地理院航空写真より引用)。
海に突き出る桟橋のようなものが4本確認できます。
何らかの軍事設備があったことは間違いないようです。
今は穏やかな風景が広がる太田尾地区ですが、80年前は敵との本土決戦に向けた設備が造られ、日夜訓練が行われていたことなど想像もできませんね。
長崎は戦争遺構の調査研究・報告が少ないような気がします。何とか当時の状況を記録し、平和への願いを込め後世に伝えて欲しいと願います。
今日は、子供の頃からずっと気になっている「枇杷崎射堡基地」のお話でした。
参考資料
「こどもと歩く戦争遺跡Ⅲ・熊本の戦争遺跡研究会編」図書
「みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"」HP
撮影日:2012(H24).05.19
『橘湾に敵艦見ゆ』
80年前の12月8日は、太平洋戦争の契機となったハワイ真珠湾攻撃があった日でした。
ニュースやテレビ番組で当時の証言や映像をご覧になられた方も多かったのではないでしょうか。
さて、今回は久しぶりに戦争遺構の話、長崎市太田尾町に残る「枇杷崎射堡(しゃほ)基地」について報告します。
まず、「射堡」とは、海上の敵艦に対し陸上に格納している魚雷を発射し攻撃する施設のことです。
魚雷を海岸線の崖などをくり貫いた壕に格納し、指揮所からの命により海面へ敷設したレールで運搬し、圧縮空気によって発射するとされています。
射堡は戦況の悪化に伴い計画された「震洋」、「蛟竜」、「海龍」などの特攻作戦と同様に配置されたようです。
戦史には「〇〇射堡隊」といった部隊が存在するので、それ相応の設備や兵員が配置されていたようですが、詳細な調査報告がなく「射堡」についてはよく分からないのが現状です。
「枇杷崎射堡基地」と言われる魚雷格納庫(壕)等は、上の写真の赤部分に存在します。
子供の頃から磯遊びや魚釣りで太田尾を訪れるたびに、海岸に残るコンクリートや台座と配管、崖に掘られた穴がずっと気になっていましたが、近年のネット情報によりこれが「射堡」であることを知ることができました。
それでは、現在と過去撮った写真で「枇杷崎射堡基地」を見ていきたいと思います。
堤防先端から海岸に下りるとコンクリートで固めた歩道のような部分があります。
ここには後ほど出てくる圧縮空気の配管が埋設されているものと考えられます。
振り返るとこのような感じです。子供の頃から変わりません。
藪の中には関連する設備や建物の痕跡は何もありません。
崖の先端を取り巻くように続いています。歩く際には便利です。
裏側の海岸に出ました。土地は崖側は平ら、海面側は下がっています。
昔は崖側にコンクリート台座と配管がありましたが・・・。
さらに枇杷崎に向かって進みます。どこにでもある海岸です。
よく観察すると崩れたコンクリートの塊が転がっています。
これは四角い原型を留めている台座。
さらに進むと崖にある壕が見えてきます。
中は広くゴミも投棄されていません。大きな崩落も無く、奥行きは20m近くあります。
入口や内部をコンクリートで固めたような跡は、はっきりと確認できません。
ネットや資料によると壕は5つと記されていますが、4つは確認しました。
ほぼ等間隔で並んでいます。
ここからは過去(2012年)撮った写真です。
壕の状態は今とほとんど変わりませんが、撮影時には人為的にリュウゼツランや花が植えてあります。
誰かが隠れ家として使っているような感じでした。
壕の海面側に大きなコンクリートの塊がありましたが、現在は確認できません。
今はないコンクリート台座と配管がひと昔前にはありました。。
子供心にも一体何だろうと思わせる興味津々の残骸でした。
1948年の航空写真(国土地理院航空写真より引用)。
海に突き出る桟橋のようなものが4本確認できます。
何らかの軍事設備があったことは間違いないようです。
今は穏やかな風景が広がる太田尾地区ですが、80年前は敵との本土決戦に向けた設備が造られ、日夜訓練が行われていたことなど想像もできませんね。
長崎は戦争遺構の調査研究・報告が少ないような気がします。何とか当時の状況を記録し、平和への願いを込め後世に伝えて欲しいと願います。
今日は、子供の頃からずっと気になっている「枇杷崎射堡基地」のお話でした。
参考資料
「こどもと歩く戦争遺跡Ⅲ・熊本の戦争遺跡研究会編」図書
「みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"」HP
コメント一覧
2. Posted by ちび太郎 2022年01月03日 01:47
サルル様
新年おめでとうございます。
いつもコメントありがとうございます。
明るい話題が少ない昨今ですが、自分なりに楽しみを見つけながら今年も過ごしたいと思います。
今年もよろしくお願いします。
新年おめでとうございます。
いつもコメントありがとうございます。
明るい話題が少ない昨今ですが、自分なりに楽しみを見つけながら今年も過ごしたいと思います。
今年もよろしくお願いします。
1. Posted by サルル 2021年12月18日 22:35
おばんです。
枇杷崎射堡基地、1度だけ、枇杷崎まで歩けるのか行ったことがあります。1948年の航空写真は興味深いですね。
ただ、長崎自体は魚雷を作る工場だらけでしたので供給的には問題ないと思いますが、正直言って、幕府が砲台のレプリカを作ったレベルぐらいの効果しかなかったのではと思います。
逆に言えば、竹やりで戦うことを考えるほど追い込まれた状況を表すような戦争遺跡にも思えます。
枇杷崎射堡基地、1度だけ、枇杷崎まで歩けるのか行ったことがあります。1948年の航空写真は興味深いですね。
ただ、長崎自体は魚雷を作る工場だらけでしたので供給的には問題ないと思いますが、正直言って、幕府が砲台のレプリカを作ったレベルぐらいの効果しかなかったのではと思います。
逆に言えば、竹やりで戦うことを考えるほど追い込まれた状況を表すような戦争遺跡にも思えます。