2020年10月12日 21:21
高島周遊 その7・蛎瀬立坑(長崎市高島町)
撮影日:2020(R2).09.21
『立坑があった場所に唯一残る建築施設』
炭鉱には石炭や人員、通気のために地上から坑内へ垂直に掘り下げた立坑(竪坑)という坑道施設があります。
高島の立坑は、
・北渓井坑(明治2・45・2.1×1.6)
・南洋井坑(明治4・42・不明)
・蛎瀬第一立坑(明治34・169・3.9×3.0)
・蛎瀬第二立坑(明治34・194・4.9×3.0)
・蛎瀬立坑(昭和17・375・6.0×6.0)
・二子立坑(昭和38・965・6.5×6.5)がありました。
※()の表示内容は(掘削完了年・深度m・直径m)
今回は蛎瀬立坑について・・・。
※上記写真は石炭資料館のパネル、高島町記念誌より出典
閉山時、高島炭鉱は蛎瀬・二子の両立坑が稼働していたのですが、閉山後、立坑は埋められ密閉、炭鉱のシンボルと言われる立坑櫓(竪坑櫓)も解体され現存しません。
高島に限らず閉山した多くの炭鉱では、櫓を含め殆どの施設が解体され更地となってしまいました。
立坑櫓については、長崎と同様に「明治日本の産業革命遺産」となった荒尾市、大牟田市の「万田坑」「宮原坑」を一度見学されると立坑や施設、炭鉱の構造や仕組みがよく分かると思います。
過去記事 ⇒ 万田坑
『立坑があった場所に唯一残る建築施設』
炭鉱には石炭や人員、通気のために地上から坑内へ垂直に掘り下げた立坑(竪坑)という坑道施設があります。
高島の立坑は、
・北渓井坑(明治2・45・2.1×1.6)
・南洋井坑(明治4・42・不明)
・蛎瀬第一立坑(明治34・169・3.9×3.0)
・蛎瀬第二立坑(明治34・194・4.9×3.0)
・蛎瀬立坑(昭和17・375・6.0×6.0)
・二子立坑(昭和38・965・6.5×6.5)がありました。
※()の表示内容は(掘削完了年・深度m・直径m)
今回は蛎瀬立坑について・・・。
※上記写真は石炭資料館のパネル、高島町記念誌より出典
閉山時、高島炭鉱は蛎瀬・二子の両立坑が稼働していたのですが、閉山後、立坑は埋められ密閉、炭鉱のシンボルと言われる立坑櫓(竪坑櫓)も解体され現存しません。
高島に限らず閉山した多くの炭鉱では、櫓を含め殆どの施設が解体され更地となってしまいました。
立坑櫓については、長崎と同様に「明治日本の産業革命遺産」となった荒尾市、大牟田市の「万田坑」「宮原坑」を一度見学されると立坑や施設、炭鉱の構造や仕組みがよく分かると思います。
過去記事 ⇒ 万田坑
今回、堤防側から撮影した蛎瀬事業所跡です。
コンクリートの堤防下が大きくえぐれ陥没しています。
海側の護岸が損傷し、土砂が流出しているのかも知れません。
事業所は産廃施設の倉庫に転用されているようですが、老朽化が著しく進んでいるように見えます。
地表に正方形の跡がありました。
375m直下への立坑(昭和63年解体)があった場所ではないでしょうか・・・。
通勤電車や物資搬送用の車両が走っていた証でしょう・・・。
いつの時代の物か分かりませんが、地中からレールが突き出ていました。
蛎瀬、仲山間を運航した通勤電車(高島町史より)
風雨にさらされ、特に塩害による建物の劣化は早いものと思われます。
蛎瀬事業所の解体もそう遠くないうちに訪れるような気がしました。
コンクリートの堤防下が大きくえぐれ陥没しています。
海側の護岸が損傷し、土砂が流出しているのかも知れません。
事業所は産廃施設の倉庫に転用されているようですが、老朽化が著しく進んでいるように見えます。
地表に正方形の跡がありました。
375m直下への立坑(昭和63年解体)があった場所ではないでしょうか・・・。
通勤電車や物資搬送用の車両が走っていた証でしょう・・・。
いつの時代の物か分かりませんが、地中からレールが突き出ていました。
蛎瀬、仲山間を運航した通勤電車(高島町史より)
風雨にさらされ、特に塩害による建物の劣化は早いものと思われます。
蛎瀬事業所の解体もそう遠くないうちに訪れるような気がしました。