2024年08月21日 17:24
撮影日:2024(R6).08.08
『個人的におすすめのビーチ』
今日は「千々町の海岸」です。
Googleマップでは海岸になんの表記もありませんが、Yahoo地図では「千々海水浴場」と表示されています。記憶の中で「海水浴場」と呼んでいたことは間違っていなかったようです。桟敷等の施設があったかは定かではありませんが・・・。
入江には2か所の消波ブロックが設置されています。野母崎方向。

砂と石が混ざり合った浜になっています。茂木方向。

振り返ると「猿岳」、山容がいいですね。
猿岳は秋葉山とも呼ばれ、岩崖の上には猿田彦大明神や秋葉権現が祭られた信仰の山です。

千々川が流れ込んでいます。
海岸線に沿って道路が延びているので行ってみます!

大物が狙えそうな地磯が広がっています。

穴釣りも楽しめそうです。地磯の先には砂浜が見えます。

細かな粒のきれいな砂浜が広がっています。

行き止まりから振り返ります。
訪れる人も少なくプライベートビーチ的な感じで楽しめそうですね。

千々町の扇状地は広く、まとまった集落が形成されています。

次回は為石海岸へと続きます。
『個人的におすすめのビーチ』
今日は「千々町の海岸」です。
Googleマップでは海岸になんの表記もありませんが、Yahoo地図では「千々海水浴場」と表示されています。記憶の中で「海水浴場」と呼んでいたことは間違っていなかったようです。桟敷等の施設があったかは定かではありませんが・・・。
入江には2か所の消波ブロックが設置されています。野母崎方向。

砂と石が混ざり合った浜になっています。茂木方向。

振り返ると「猿岳」、山容がいいですね。
猿岳は秋葉山とも呼ばれ、岩崖の上には猿田彦大明神や秋葉権現が祭られた信仰の山です。

千々川が流れ込んでいます。
海岸線に沿って道路が延びているので行ってみます!

大物が狙えそうな地磯が広がっています。

穴釣りも楽しめそうです。地磯の先には砂浜が見えます。

細かな粒のきれいな砂浜が広がっています。

行き止まりから振り返ります。
訪れる人も少なくプライベートビーチ的な感じで楽しめそうですね。

千々町の扇状地は広く、まとまった集落が形成されています。

次回は為石海岸へと続きます。
2024年08月20日 22:34
撮影日:2024(R6).08.08
『前からバスが来ませんように・・・』
今日は「大崎町の海岸」です。
県道34号、宮摺から大崎・千々までは1.5車線程度の狭い道が続き、見通しの悪いカーブが連続します。
今でこそ県道は網場町から野母崎町まで繋がっていますが、宮摺から大崎・千々間の道路は昭和36年(1961年)から5年間かけ林道を整備し、昭和46 年(1971年)に県道となっています。
建設省の主要地方道としての指定も平成5年(1993年)なので道路としての歴史は古くありません。
今も拡幅工事や災害復旧工事が行われていることから、いかに急峻な斜面での道路整備が困難であるかを知ることができます。

では、道路が整備される前の交通手段は、昭和初期には茂木と大崎・千々間に5.6トンの発動機船1隻が人だけでなく日用品や農産物、農業資材などを運んでいたそうです。
昭和29年(1954年)に「茂木交通有限会社」が設立され、5.6 トンの発動機船 3 隻が、茂木~大崎~千々(乗降客の有る場合、宮摺にも寄港する。)に1日3回運航され、茂木港からの時間・運賃は、宮摺20分20円、大崎30分40円、千々40分50円であったと記録されています。
さらに千々から、藤田尾、為石、樺島への航路があったことから、野母半島の千々石湾(橘湾)沿岸の集落は船を交通手段とする陸の孤島だったことが分かります。

※茂木支所作成「茂木のあゆみ」より引用
後のバス路線の拡大は昭和39年(1964年)11月 2日 宮摺~大崎 、昭和43年(1968年)11月 11日 大崎~千々と記録されています。
それでは県道から大崎町集落の狭く急な坂を下って海岸に向かいます。
訪れた時はちょうど満潮時でした。

干潮になると堤防下にはきれいな砂浜が現れます。

反対側(宮摺方向)の堤防の奥には満潮時でも砂浜があることが確認できます。

職場の野球チームで一晩キャンプに来たのは大崎海岸だったような・・・。
バカ騒ぎした遠い昔の楽しい夜をふと思い出しました。
次回は千々です!
※写真はクリックすると拡大できます。
『前からバスが来ませんように・・・』
今日は「大崎町の海岸」です。
県道34号、宮摺から大崎・千々までは1.5車線程度の狭い道が続き、見通しの悪いカーブが連続します。
今でこそ県道は網場町から野母崎町まで繋がっていますが、宮摺から大崎・千々間の道路は昭和36年(1961年)から5年間かけ林道を整備し、昭和46 年(1971年)に県道となっています。
建設省の主要地方道としての指定も平成5年(1993年)なので道路としての歴史は古くありません。
今も拡幅工事や災害復旧工事が行われていることから、いかに急峻な斜面での道路整備が困難であるかを知ることができます。

では、道路が整備される前の交通手段は、昭和初期には茂木と大崎・千々間に5.6トンの発動機船1隻が人だけでなく日用品や農産物、農業資材などを運んでいたそうです。
昭和29年(1954年)に「茂木交通有限会社」が設立され、5.6 トンの発動機船 3 隻が、茂木~大崎~千々(乗降客の有る場合、宮摺にも寄港する。)に1日3回運航され、茂木港からの時間・運賃は、宮摺20分20円、大崎30分40円、千々40分50円であったと記録されています。
さらに千々から、藤田尾、為石、樺島への航路があったことから、野母半島の千々石湾(橘湾)沿岸の集落は船を交通手段とする陸の孤島だったことが分かります。

※茂木支所作成「茂木のあゆみ」より引用
後のバス路線の拡大は昭和39年(1964年)11月 2日 宮摺~大崎 、昭和43年(1968年)11月 11日 大崎~千々と記録されています。
それでは県道から大崎町集落の狭く急な坂を下って海岸に向かいます。
訪れた時はちょうど満潮時でした。

干潮になると堤防下にはきれいな砂浜が現れます。

反対側(宮摺方向)の堤防の奥には満潮時でも砂浜があることが確認できます。

職場の野球チームで一晩キャンプに来たのは大崎海岸だったような・・・。
バカ騒ぎした遠い昔の楽しい夜をふと思い出しました。
次回は千々です!
※写真はクリックすると拡大できます。
2024年08月19日 14:45
撮影日:2024(R6).08.08
『人影はなく桟敷も消えた海水浴場』
シーズンの行楽地 夏
海水浴・・・市付近の海水浴場は、盛夏になると浴客で大混雑する。
「宮摺海水浴場」西彼茂木町 長崎バス 大波止より50分
白砂の美しい海水浴場
(昭和34年(1959年)5月10日 発行の「長崎への招待」初版より引用)
シーズンの行楽 夏 納涼
海水浴 「宮摺」 西彼茂木町
長崎バスで50分。白砂の美しい海水浴場で、7月上旬から9月上旬まで。
昭和41年(1966年)7月1日 発行の「長崎への招待」第2版より引用)
2017年に開通した県道34号線立石トンネルを抜けると宮摺はすぐです。
透明度の高い海です。

砂浜の宮摺海水浴場が見えてきました。

バス停の名板もさびれた感じになっています。
海辺にはだれもいません。
昔は貸しボート、今は個人のレジャーボートが並んでいます。

海の家の基礎だけが残っています。
私が10・20代の頃、つまり70年代から80年代の夏、どこの海水浴場にも桟敷がいくつも並び、それぞれに〇〇家とか、〇〇荘とか名前がついていましたね。

足の短い折りたたみテーブルに湿っぽく砂でざらついたゴザ、潮風にあたりながらぼんやり沖を眺めて過ごした夏を思い出します。

宮摺という地名の由来は定かではありませんが、摺とは地滑りや崖の意味があります。
集落に竈神社があるところから、神社の後方がむかし地滑りやがけ崩れなどがあった場所なのかも知れません。
宮摺から先の大崎、千々に向かっては、豪雨による道路の修復工事がいつも行われています。

昭和53年の宮摺海水浴場の様子です。賑わっていますね。
※NBC長崎放送ユウガクに会員登録し、許可を得て画像を掲載しています。

昭和50年(1975年)の航空写真を確認すると、海に注ぐ宮摺川の両岸に桟敷が並んでいるのが確認できます。(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)

昭和62年(1987年)の航空写真を確認すると、左岸の桟敷は無くなり右岸にのみ桟敷があるのが確認できます。(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)

陸側から沖の瀬はひとつの岩礁のように見えますが、航空写真で確認すると複数の大きな岩礁であることが分かりますね。
次回、大崎、千々に向かいます。
『人影はなく桟敷も消えた海水浴場』
シーズンの行楽地 夏
海水浴・・・市付近の海水浴場は、盛夏になると浴客で大混雑する。
「宮摺海水浴場」西彼茂木町 長崎バス 大波止より50分
白砂の美しい海水浴場
(昭和34年(1959年)5月10日 発行の「長崎への招待」初版より引用)
シーズンの行楽 夏 納涼
海水浴 「宮摺」 西彼茂木町
長崎バスで50分。白砂の美しい海水浴場で、7月上旬から9月上旬まで。
昭和41年(1966年)7月1日 発行の「長崎への招待」第2版より引用)
2017年に開通した県道34号線立石トンネルを抜けると宮摺はすぐです。
透明度の高い海です。

砂浜の宮摺海水浴場が見えてきました。

バス停の名板もさびれた感じになっています。
海辺にはだれもいません。
昔は貸しボート、今は個人のレジャーボートが並んでいます。

海の家の基礎だけが残っています。
私が10・20代の頃、つまり70年代から80年代の夏、どこの海水浴場にも桟敷がいくつも並び、それぞれに〇〇家とか、〇〇荘とか名前がついていましたね。

足の短い折りたたみテーブルに湿っぽく砂でざらついたゴザ、潮風にあたりながらぼんやり沖を眺めて過ごした夏を思い出します。

宮摺という地名の由来は定かではありませんが、摺とは地滑りや崖の意味があります。
集落に竈神社があるところから、神社の後方がむかし地滑りやがけ崩れなどがあった場所なのかも知れません。
宮摺から先の大崎、千々に向かっては、豪雨による道路の修復工事がいつも行われています。

昭和53年の宮摺海水浴場の様子です。賑わっていますね。
※NBC長崎放送ユウガクに会員登録し、許可を得て画像を掲載しています。

昭和50年(1975年)の航空写真を確認すると、海に注ぐ宮摺川の両岸に桟敷が並んでいるのが確認できます。(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)

昭和62年(1987年)の航空写真を確認すると、左岸の桟敷は無くなり右岸にのみ桟敷があるのが確認できます。(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)

陸側から沖の瀬はひとつの岩礁のように見えますが、航空写真で確認すると複数の大きな岩礁であることが分かりますね。
次回、大崎、千々に向かいます。