消えゆくものと消えたもの

2015年10月06日 02:59

『無駄な時間があるから旅は楽しい・・・』

今でもJRの列車を「汽車」、路面電車は「電車」と呼んでしまう長崎人の私です。
さて、5日のGoogleトップページは時刻表が貼り付けてありました。
何事かと思ったら、日本初の時刻表出版121周年を記念したロゴだったようです。

と言うことで、手もとにある昔の時刻表を引っ張り出てみました。
出版は昭和54年7月(1979年)号、今から36年前の時刻表です。

現在、長崎や佐世保駅を発着する列車で愛称が付いているのは、「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」と「シーサイドライナー」程度でしょうか・・・。
それに比べてこの当時は特急や急行列車が数多く運行されていたこともあり、寝台特急列車の「さくら」「あかつき」「みずほ」をはじめ、「弓張」「出島」「雲仙」「西海」「平戸」、別府発の「西九州」なんて列車も・・・。
長崎ゆかりの愛称が付いた列車がたくさんありました。
鉄道に詳しくない私でさえ「さくら」は列車番号1番、東京発の花形列車だったことに改めて気付きます。

時刻表2


鹿児島本線の頁を見ると、「えびの」「にちりん」「ぎんなん」「まつかぜ」「ゆのか」「さんべ」「かいもん」「火の山」「有明」「ちくご」などなど・・・。
愛称だけでどの県を走っていた列車であるかが想像でき、いかに鉄道輸送が主流の時代であったかがよく分かります。

時刻表3


東京出張も飛行機での日帰りが当たり前の時代になりました。
個人旅行も目的地に早く着くかが求められます。
速さは時間を有効に使うには重要なポイントだと思いますが、たまには目的地に着くまでいろんな事を考えたり、普段より他人と多く会話したり、昔、寝台列車や急行を利用していた頃のような時間の使い方があってもいいんじゃないかと思います。
今はのんびり時間を使うと、「無駄」とか真逆に「贅沢」だと言われます。

ところで36年前の時刻表、私は17歳。なぜこの時刻表が手元にあるのか記憶にありません。
旅行の予定があったのか、はたまた家出の計画でも練っていたのか・・・(笑)。

2015年10月01日 23:02

撮影日:2015(H27).09.01

『人は去り、自然に還る村の風景』

野崎島には、野崎・野首・舟森の3つの集落があった。
中でも野崎は島で最も古くからある集落で、住民のほとんどは沖ノ神島(こうじま)神社の氏子で神官家を中心に強い絆で結ばれていたという。
キリシタン集落であった舟森集落は1966(昭和41)年、野首集落は1971(昭和46)年に全ての住民が島を離れたが、野崎集落においては沖ノ神島神社宮司が2001(平成13)年まで島を守り続けた。
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時間と共に崩れていく廃屋、その傍らで成長し続けるアロエ。
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野崎集落の突端、サバンナのような風景の先に神道と仏教徒の墓所がある。
中央、山のくぼみに野首教会が小さく見える。
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今回の小値賀島、野崎島訪問。
日程設定は正しかったが、天候が・・・。
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また機会があればリベンジしたい野崎島!!



2015年07月23日 20:25

撮影日:2015(H27).07.11

『理想郷は訪れた人の夢の彼方に・・・』

前回の別府オルレコースがある志高湖周辺には、「志高ユートピア」というレジャー施設がありました。
オルレコースから少し外れた林の中や、生い茂る夏草の向こうに、当時の賑わいを感じさせる遺構が今も点在しています。

志高ユートピアの開園は1968(S43)年、その後リフトやロープウェイが整備され1984(S59)年には約4km先の遊園地「ラクテンチ」と繋がっていたようです。

カート場や巨大迷路などのアトラクション、ホテルも完備した一大レジャー施設だったようですが、2003(H15)年、今から12年前に休園(事実上の閉園)しています。
志高ユートピア1


リフト、ロープウェイは閉園前の1998(H10)年には廃止されたようです。
平成不況の時勢を考えると、総延長4kmの設備維持は非常に厳しい状況であったことが想像に難くありません。
ちなみに鶴見岳への別府ロープウェイは約1.8km、故郷長崎の稲佐山ロープウェイは約1kmです。乗り継ぎとはいえ山中に4km・・・長いですね。

操業時から30数年、停止後すでに17年。、リフトチェアーはワイヤにぶら下がったままです。
時空の中を永遠に漂っているような感じがします。
志高ユートピア2


当時、西日本唯一の本格的なカートコース。レーサー気分でエンジン全開、多くの方がスピードと爽快感を楽しんだことでしょう。
志高ユートピア3


志高ユートピア4


ユートピアは理想郷・・・。
現実には決して存在しないもの・・・。



2015年06月10日 00:53

撮影日:2015(H27).06.06

『赤迫と蛍茶屋、終電にのみ登場する2番電車』

長崎市民の通勤通学、また旅行者の観光地巡りの足として活躍するチンチン電車。
どこまで乗っても1回120円、観光に便利な一日乗車券は500円。

チンチン電車9


今日は久しぶりに一眼レフをぶら下げて、夜のチンチン電車を取材してきました。

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2014年02月09日 23:07

撮影日:2009(H21).12.06

『今は消えた「人造大理石研ぎ出し」、略して人研ぎ(じんとぎ)の流し台』

解体途中(2009年)の香焼炭鉱安保アパートの写真から、昭和の生活や炭住アパートの構造を覗いてみました。
安保AP1


今は戸建、アパート・マンションに関わらず殆どの家のシンク(流し台)はステンレス製です。
ステンレス製シンクの量産が始まったのは1955年(昭和30)年、今から60年前のことです。
翌年からステンレスのシンクは公団団地の指定商品となり、急速に全国へ広まっていきました。
安保アパートも昭和30年代に建てられらものですが、まだステンレスシンクの採用は間に合わなかったようです。
安保AP2


ステンレス製シンクが登場する以前は建築用語で「人造大理石研ぎ出し」、略して「人研ぎ(じんとぎ)」と呼ばれる流し台でした。
もちろん今のシステムキッチンと呼ばれるような、調理スペースや収納キャビネット、コンロが一体となったものが生まれる前のことです。
それでも安保アパートの人研ぎ流し台を見ると、浅型と深型のシンク、コンロ設置台、引き出し収納など使い勝手に配慮した造りになっています。
安保AP4


その後日本では、ステンレス製シンクの普及に伴いシステムキッチンが誕生し、シンクはその一部となります。
更に台所と食事をする居間が別々であったライフスタイルが、調理と食事や団欒するスペースを併せ持つダイニンキッチン(DK)、リビングダイニングキッチン(LDK)へと変わっていきます。現在、DK・LDKは間取りを表す規格として呼ばれるようになりました。

ブロック造り2F建ての安保アパート、よく見るとトイレも水洗化されており長崎市内より早く下水道が普及していたようです。
安保AP3


炭鉱は危険と隣り合わせの過酷な労働でしたが、暮らしの中には新しい技術が多数採り入れられていたようです。

今も学校や公園では人研ぎの手洗い場を見ることができますが、需要は減ってしまい人研ぎを施工できる左官職人が居なくなっているそうです。
機械が便利な物を大量に生産した結果、人の技術を淘汰していくのは残念な気もしますね。


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