消えゆくものと消えたもの

2015年10月01日 23:02

撮影日:2015(H27).09.01

『人は去り、自然に還る村の風景』

野崎島には、野崎・野首・舟森の3つの集落があった。
中でも野崎は島で最も古くからある集落で、住民のほとんどは沖ノ神島(こうじま)神社の氏子で神官家を中心に強い絆で結ばれていたという。
キリシタン集落であった舟森集落は1966(昭和41)年、野首集落は1971(昭和46)年に全ての住民が島を離れたが、野崎集落においては沖ノ神島神社宮司が2001(平成13)年まで島を守り続けた。
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時間と共に崩れていく廃屋、その傍らで成長し続けるアロエ。
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野崎集落の突端、サバンナのような風景の先に神道と仏教徒の墓所がある。
中央、山のくぼみに野首教会が小さく見える。
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今回の小値賀島、野崎島訪問。
日程設定は正しかったが、天候が・・・。
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また機会があればリベンジしたい野崎島!!



2015年07月23日 20:25

撮影日:2015(H27).07.11

『理想郷は訪れた人の夢の彼方に・・・』

前回の別府オルレコースがある志高湖周辺には、「志高ユートピア」というレジャー施設がありました。
オルレコースから少し外れた林の中や、生い茂る夏草の向こうに、当時の賑わいを感じさせる遺構が今も点在しています。

志高ユートピアの開園は1968(S43)年、その後リフトやロープウェイが整備され1984(S59)年には約4km先の遊園地「ラクテンチ」と繋がっていたようです。

カート場や巨大迷路などのアトラクション、ホテルも完備した一大レジャー施設だったようですが、2003(H15)年、今から12年前に休園(事実上の閉園)しています。
志高ユートピア1


リフト、ロープウェイは閉園前の1998(H10)年には廃止されたようです。
平成不況の時勢を考えると、総延長4kmの設備維持は非常に厳しい状況であったことが想像に難くありません。
ちなみに鶴見岳への別府ロープウェイは約1.8km、故郷長崎の稲佐山ロープウェイは約1kmです。乗り継ぎとはいえ山中に4km・・・長いですね。

操業時から30数年、停止後すでに17年。、リフトチェアーはワイヤにぶら下がったままです。
時空の中を永遠に漂っているような感じがします。
志高ユートピア2


当時、西日本唯一の本格的なカートコース。レーサー気分でエンジン全開、多くの方がスピードと爽快感を楽しんだことでしょう。
志高ユートピア3


志高ユートピア4


ユートピアは理想郷・・・。
現実には決して存在しないもの・・・。



2015年06月10日 00:53

撮影日:2015(H27).06.06

『赤迫と蛍茶屋、終電にのみ登場する2番電車』

長崎市民の通勤通学、また旅行者の観光地巡りの足として活躍するチンチン電車。
どこまで乗っても1回120円、観光に便利な一日乗車券は500円。

チンチン電車9


今日は久しぶりに一眼レフをぶら下げて、夜のチンチン電車を取材してきました。

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2014年02月09日 23:07

撮影日:2009(H21).12.06

『今は消えた「人造大理石研ぎ出し」、略して人研ぎ(じんとぎ)の流し台』

解体途中(2009年)の香焼炭鉱安保アパートの写真から、昭和の生活や炭住アパートの構造を覗いてみました。
安保AP1


今は戸建、アパート・マンションに関わらず殆どの家のシンク(流し台)はステンレス製です。
ステンレス製シンクの量産が始まったのは1955年(昭和30)年、今から60年前のことです。
翌年からステンレスのシンクは公団団地の指定商品となり、急速に全国へ広まっていきました。
安保アパートも昭和30年代に建てられらものですが、まだステンレスシンクの採用は間に合わなかったようです。
安保AP2


ステンレス製シンクが登場する以前は建築用語で「人造大理石研ぎ出し」、略して「人研ぎ(じんとぎ)」と呼ばれる流し台でした。
もちろん今のシステムキッチンと呼ばれるような、調理スペースや収納キャビネット、コンロが一体となったものが生まれる前のことです。
それでも安保アパートの人研ぎ流し台を見ると、浅型と深型のシンク、コンロ設置台、引き出し収納など使い勝手に配慮した造りになっています。
安保AP4


その後日本では、ステンレス製シンクの普及に伴いシステムキッチンが誕生し、シンクはその一部となります。
更に台所と食事をする居間が別々であったライフスタイルが、調理と食事や団欒するスペースを併せ持つダイニンキッチン(DK)、リビングダイニングキッチン(LDK)へと変わっていきます。現在、DK・LDKは間取りを表す規格として呼ばれるようになりました。

ブロック造り2F建ての安保アパート、よく見るとトイレも水洗化されており長崎市内より早く下水道が普及していたようです。
安保AP3


炭鉱は危険と隣り合わせの過酷な労働でしたが、暮らしの中には新しい技術が多数採り入れられていたようです。

今も学校や公園では人研ぎの手洗い場を見ることができますが、需要は減ってしまい人研ぎを施工できる左官職人が居なくなっているそうです。
機械が便利な物を大量に生産した結果、人の技術を淘汰していくのは残念な気もしますね。


2013年03月25日 19:29

『長崎市民による洋館保存運動のきっかけとなった場所』

現在、この近くには長崎税務署や県警など公的建物があり、岸壁には保安庁の巡視船が係留される静かな場所になっていますが、1985(昭和60)年までは三菱高島炭鉱の事務所として建築された木造洋館「炭坑舎」がありました。
炭鉱舎3


炭坑舎は桟橋に繋がり、三菱造船所初の鉄製汽船「夕顔丸」が高島や端島(軍艦島)に多くの人や物資を運んだ時代もありました。
炭鉱舎2


木造洋館「炭坑舎」と三菱社船「夕顔丸」。
今この場所を訪れても、往事の賑わいを感じられるものは何一つないのですが、唯一、石碑がポツンと立っているのを見つけました。
炭鉱舎4


石碑には次のように記されていました。

史跡 三菱合資会社長崎支店跡 三菱マテリアル株式会社

この地は、三菱の創業者岩崎彌太郎が明治十四年三月三十一日、後藤象二郎の経営する後藤炭坑商局(通称「炭坑舎」)を譲り受け、以後、高島炭坑の石炭販売を主業務とする他三菱造船所の設立にも大切な役割を果たす等、三菱の内外の本拠地として礎を築き、三菱の発展に寄与したところである。明治三十四年五月頃には、木造洋館二階建での事務所に建替えられ、三菱合資会社長崎支店が営業を行なっていた。その後、石炭事業の独立に伴い、三菱鉱業(株)並びに三菱石炭鉱業(株)に継承されてきたが、昭和六十年一月、石炭事業の使命を終え、建物は解体された。以上の経緯を後世に伝承するため、これを建立する。

平成十三年三月吉日

炭坑舎が解体される際には、保存を求める市民運動がありました。
市民自らが街のあり方を考えるきっかけになったと言われています。

長崎の発展を築いた石炭産業、文化財としても価値があった「炭坑舎」。
解体後16年目にして、三菱が記念碑を建立しています。
本来であれば、市が当時の写真付きで建立し後世に伝えるべきものだと思うのですが・・・。
炭鉱舎1


昭和40年代のゼンリンの地図です。
炭坑舎には複数の会社が入っています。隣には「夕顔食堂」があります。
「宝焼酎工場」長崎で焼酎を造っていたの?って感じですね。
高島に住む子弟が市内の学校に通うための「高島学生寮」。
「空ビン置場」に「鉄材置場」。広い「貯炭場」
今よりずっと活気があったように感じますね。
炭鉱舎5


現在、長崎と高島を結ぶ船の名は「コバルトクイーン」。
街や港の風景は変わっても、できれば「夕顔丸」という名前は大切に受け継いで欲しかった。
音や言葉の響きだけでも、故郷を思い出すきっかけになると思うのです。
「夕顔丸」、長崎に似合いのとても優しい響きだと思いませんか・・・。

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