炭鉱関連

2013年03月25日

『長崎市民による洋館保存運動のきっかけとなった場所』

現在、この近くには長崎税務署や県警など公的建物があり、岸壁には保安庁の巡視船が係留される静かな場所になっていますが、1985(昭和60)年までは三菱高島炭鉱の事務所として建築された木造洋館「炭坑舎」がありました。
炭鉱舎3


炭坑舎は桟橋に繋がり、三菱造船所初の鉄製汽船「夕顔丸」が高島や端島(軍艦島)に多くの人や物資を運んだ時代もありました。
炭鉱舎2


木造洋館「炭坑舎」と三菱社船「夕顔丸」。
今この場所を訪れても、往事の賑わいを感じられるものは何一つないのですが、唯一、石碑がポツンと立っているのを見つけました。
炭鉱舎4


石碑には次のように記されていました。

史跡 三菱合資会社長崎支店跡 三菱マテリアル株式会社

この地は、三菱の創業者岩崎彌太郎が明治十四年三月三十一日、後藤象二郎の経営する後藤炭坑商局(通称「炭坑舎」)を譲り受け、以後、高島炭坑の石炭販売を主業務とする他三菱造船所の設立にも大切な役割を果たす等、三菱の内外の本拠地として礎を築き、三菱の発展に寄与したところである。明治三十四年五月頃には、木造洋館二階建での事務所に建替えられ、三菱合資会社長崎支店が営業を行なっていた。その後、石炭事業の独立に伴い、三菱鉱業(株)並びに三菱石炭鉱業(株)に継承されてきたが、昭和六十年一月、石炭事業の使命を終え、建物は解体された。以上の経緯を後世に伝承するため、これを建立する。

平成十三年三月吉日

炭坑舎が解体される際には、保存を求める市民運動がありました。
市民自らが街のあり方を考えるきっかけになったと言われています。

長崎の発展を築いた石炭産業、文化財としても価値があった「炭坑舎」。
解体後16年目にして、三菱が記念碑を建立しています。
本来であれば、市が当時の写真付きで建立し後世に伝えるべきものだと思うのですが・・・。
炭鉱舎1


昭和40年代のゼンリンの地図です。
炭坑舎には複数の会社が入っています。隣には「夕顔食堂」があります。
「宝焼酎工場」長崎で焼酎を造っていたの?って感じですね。
高島に住む子弟が市内の学校に通うための「高島学生寮」。
「空ビン置場」に「鉄材置場」。広い「貯炭場」
今よりずっと活気があったように感じますね。
炭鉱舎5


現在、長崎と高島を結ぶ船の名は「コバルトクイーン」。
街や港の風景は変わっても、できれば「夕顔丸」という名前は大切に受け継いで欲しかった。
音や言葉の響きだけでも、故郷を思い出すきっかけになると思うのです。
「夕顔丸」、長崎に似合いのとても優しい響きだと思いませんか・・・。

chibitaro0102 at 19:29コメント(9)トラックバック(0) 

2013年01月28日

撮影日:2013(H25).01.27

『鉱夫達の胃袋を満たしたチャンポン』

長崎にやってきた中国人留学生に、安くて栄養価の高い食事を提供したいという思いから生まれたチャンポン。
そんなチャンポンも所変われば、日々過酷な労働に汗する炭鉱(やま)の男達の胃袋を満たす食事となり、杵島炭鉱のあった武雄市北方周辺では今もその味が受け継がれています。

と言うことで、北方までチャンポンを食べにぶらっと出かけました。

杵島炭鉱1


野菜大盛りを注文しました。見た目びっくりしますが、食べ始めると苦にもならず完食です。スープは濃い目、野菜がたっぷりでも味が薄くなることはありません。
武雄へお出かけの際は、是非チャンポンを食べてみてくださいね。

さて、チャンポンだけでは今の北方町周辺に大きな炭鉱があったとは想像もつかないので、杵島炭鉱の遺構を紹介します。
この煉瓦の変電所跡は、大町町に残る杵島炭鉱関連の建造物です。
杵島炭鉱3


炭鉱王と呼ばれた地元資産家高取伊好(たかとりこれよし)が、1909(明治42)年、当時北方村大字志久(しく)にあった諸炭鉱を買収統合し、杵島第一坑(本坑)、杵島第二坑とし、本格的開発が始まります。
1919(大正8)年の出炭量58.6万トンは県下の約27%を占め、三菱の相知(おうち)・芳谷(よしたに)の大炭鉱を上回っるほどの勢いがありました。
1929(昭和4)年大町村の佐賀炭鉱を買収して第三坑とし、1918年設立の高取鉱業会社から杵島炭鉱会社と改称し、本拠を北方から大町に移します。
杵島炭坑4


同年には第四坑を開坑、文字どおり県下最大炭鉱となります。
1937(昭和12)年には、佐賀県内出炭髙109万トンのうち83万トンを占め、県下一の大炭鉱として佐賀の産業発展に寄与しました。
1943(昭和18)年には江北(こうほく)村に第五坑を開きます。本拠大町は炭鉱町として急激に発展、50年には人口2万4000人に達する炭都となりました。
そんな大規模な杵島炭鉱でしたが、他の炭鉱と同様にエネルギー革命の波を受け、1969(昭和44)年に閉山、閉山後は大半の人口が流出し、現在は7,000人余の静かな町となっています。

杵島炭鉱3 (2)


大規模炭鉱だったことから、周辺には遺構がまだまだ眠っているような気配がありました。

杵島炭坑5


少し暖かくなったら、またゆっくり散策してみようと思っています。

chibitaro0102 at 23:25コメント(0)トラックバック(0) 

2012年10月01日

撮影日:2012(H24).09.08

『三池港の貿易を監督した長崎の小さなお役所』

旧長崎税関三池税関支署は、三池港開港と同時に明治41(1908)年に開庁、昭和40(1965)年3月まで税関として57年間使用されました。
木造平屋建て、面積124.40㎡、入母屋造角屋付き、屋根は桟瓦葺で一部銅板葺としています。窓は上下に開き、下見板張の外壁で、受付窓口もカウンターが残るなど当時の様子がうかがえます。
税関という行政機能・役割をもった建物が、荷役を集積する港と一体となって、三池港の歴史や機能を理解することができます。
全国的にみても、明治期の税関庁舎は5棟しか現存せず、石炭産業における海外貿易の重要性を物語る施設として、貴重な文化財です。
(改修された旧三池税関支所に設置された案内板より)

201209三井税関支署


使用されることなく放置され、老朽化が著しかった旧三池税関支署ですが、今年修復工事が完了し当時姿を取り戻すことができました。

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chibitaro0102 at 00:30コメント(0)トラックバック(0) 

2012年09月25日

撮影日:2012(H24).09.08

『明治時代の迎賓館で食事と建物の造りを楽しむ』

三井港倶楽部は1907(明治40)年、清水組(現清水建設(株))により設計起工され、1908年2月上棟、同年8月三池港の開港と同時に開館。
以来、三井関係の社交倶楽部であるとともに、外国高級船員の宿泊や接待、あるいは皇族方を始め、政財界人の迎賓館として広く利用されました。

三池港倶楽部1


平成17年には大牟田市指定文化財となり、明治時代の古き良き雰囲気の中での結婚式場や、レストランとして使用され、多くの市民、観光客が訪れる場所となっています。

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chibitaro0102 at 01:00コメント(2)トラックバック(0) 

2012年09月21日

『一枚の検査証から見えてくるもの』

竪坑櫓や、まだ多くの施設が残っている頃に撮った写真を再度見直してみました。

ariake8


海側(有明海)から撮った夕暮れの有明鉱です。
高くそびえる二つの竪坑櫓、大きな巻き揚げ機械室、巨大扇風機、工場などが夕陽に染まって見えています。
坑内や修理工場などで使用される資材が、この海側のバックヤードから運ばれていたのでしょうか・・・。

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chibitaro0102 at 06:00コメント(4)トラックバック(0) 
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