炭鉱関連

2014年09月01日

撮影日:2014(H26).07.20
撮影日:2008(H20).09.14

『日本初から世界へ。池島で培われた日本の技術力』

炭鉱施設やアパート群と同様に必ず紹介される旧発電所。
目の前で朽ちていく巨大施設に圧倒されますが、この発電所は池島が近代的炭鉱(ビルド鉱)として歩み始めた1966年に完成、最大出力8,000kwの性能を有しました。
池島発電所


また発電時に生じる排熱を利用し、海水から真水を造りだす淡水化装置が併せて導入されました。
日本初の陸上用海水淡水化装置(能力2,650トン/日)によって、水資源を持たない離島における飲料水が確保されたのです。
淡水化装置は、写真中央部のコンクリ―ト基礎部分が残る位置に設置されていました。
装置の姿はこちらをご覧ください → 三井松島グループ100年史
池島淡水化1


淡水化装置を納品したのは㈱ササクラ(旧社名:㈱笹倉機械製作所)。
㈱ササクラの会社沿革によると、1966年(昭和41年)9月 松島炭鉱池島鉱業所へわが国初の陸上用海水淡水化装置(2,650トン/日)を納入、1967年(昭和42年)1月クウェート国政府から当時世界最大の海水淡水化プラント(36,400トン/日)を受注とあります。
その後も中東各国へ淡水化装置を納入し、ササクラは世界有数の水処理技術を有する企業へと成長し今日に至っています。
(写真は炭鉱施設内に残されていた名板・2008年撮影)
池島淡水化2


海水を淡水化する方法は主に2通りあり、ざっくり言えば池島で採用された海水を熱し蒸発させて真水にする「多段フラッシュ式」と、特殊な膜に海水を通し塩分を除去する「逆浸透式」に分けられます。
多段フラッシュ式は、石炭による熱エネルギーが大いに利用できる池島ならでは採用だったのです。
池島淡水化3


日本の西の果て、炭鉱で栄えた小さな島。
朽ちていく建物だけではなく、世界に誇る日本の技術が生まれたことも、記憶に残すべきものではないでしょうか。

※1枚目の写真のみ2014年撮影

chibitaro0102 at 23:22コメント(2)トラックバック(0) 

2014年08月01日

撮影日:2014(H26).07.20

『バス停の名前に残された歴史の頁』

多くの人が暮らし、島外からの出入りも多かった時代、池島にも市街地を走るような大型バスが運行されていました。
今はコミュニティバス(ワゴン車)が島内を巡回しています。
「変電所前」
変電所前1


運行は「池の口」と「神社下」の停留所を基点として、桟橋、郷東、変電所前、鉱業所前、新店街通り、公住入口、グランド前を朝6時半から夕方6時半頃まで、日に34便が周回しています。現在、これらバス停を利用する方がどれほどいるのか気になるところですが、コミュニティバスはバス停以外でも乗り降りが自由であり、島で暮らす人や池島に遊びに来た人にとっては唯一の交通機関として、その役割を果たしているのではないでしょうか。
「鉱業所前」
鉱業所


ところでバス停の名前については特に法的な規制があるわけでもなく、運行事業者が乗客の利便性を考慮し、周辺の目印となるものや、昔からの土地の呼び名など、誰もが分かり安い名前を付けるようです。
でも中には歴史的な背景を知らないと、一見何の事やら、どこを指すのか分からないバス停があったりします。
「グランド前」
グランド前


私が子供の頃に住んでいた長崎の日見地区には、網場バス停と水族館前バス停の間に「泣き河原」というバス停がありました(今は総科大前に変更されています)。
泣き河原(なきがわら)という意味が分からず、いつも不思議な名前のバス停だなぁと思っていましたが、その理由が分かったときにはすでにバス停の名前は変わっていました。
「泣き河原」と呼ばれていた理由は、江戸時代(1800年頃)に旅の商人がこの河原の近くで盗賊に刺殺され、妻と娘が後を追って自殺したという悲しい物語があったということです。
「神社下」
神社下1


また、目印が消えた後もバス停にその名を残しているものがあります。
たとえば大村にはかつて九州電力大村火力発電所があり、最寄りのバス停は「発電所前」でした。
2006年火力発電所は解体撤去され更地となりましたが、「発電所前」のバス停は残っていました。
現在、火力発電所跡は太陽光のメガソーラー発電所となり、再びバス停と発電所が繋がることになりました。
このように同じ呼び名の建物が復活するというのは稀なケースだと思いますけどね。
「神社下」
神社下


池島のバス停の殆どは、炭鉱の発展と共に生まれたものの名前が付けられました。
その炭鉱が使命を終え、多くの人が島を去りました。
将来、老朽化する建物がどうなっていくのか、バスの運行がずっと存続できるものかは分かりません。
それでも要所要所にぽつんと立つバス停は、賑やかだったころから、静かになってしまった島の風景をこれからも見続けてくれるのではないでしょうか。
「公住入口」
公住入口


次回は池島で出会っためずらしいやつの話をしたいと思います。

chibitaro0102 at 02:00コメント(0)トラックバック(0) 

2014年07月26日

撮影日:2014(H26).07.20

『6年ぶりに訪れた島の風景』

神の浦(こうのうら)から地域連絡船「進栄丸」で池島へ。
所要時間15分。
池島港1


1952年(昭和27)池島炭鉱の開発着手。
1959年(昭和34)出炭開始。高層アパートの建設ラッシュ
1970年(昭和45)島の人口は最大の7,770人となる。
2014年6月末現在、世帯数138・総数212(男125・女87)。
港周辺のアパートが何棟も消えていた。
池島港2


最盛期の1985年には150万トンを越える採炭達成。
1998年電力自由化。安価な海外炭との競争には勝てず2001年11月、池島炭鉱閉山。
池島港3


炭鉱施設の風景は大きく変わっていないように見えたのだが・・・。
2年前の台風による建物の損傷大。
池島港4


蝉の声だけが聞こえる静かな島。
池島港5


池島炭鉱体験ツアーで島を訪れたのが2008年9月、もう6年も経ってます。
→ 体験ツアーの記事
炭鉱閉山からは13年、そう遠い昔でもない感じがします。
過ぎた時間を短く感じたり、長く感じたり、人それぞれ何を基準に推し量るかで感覚に違いがあるものです。
僅か4時間程度の島歩きの風景をしばらく報告したいと思います。


chibitaro0102 at 09:11コメント(2)トラックバック(0) 

2013年10月18日

撮影日:2013(H25).10.13

『一島・一町・一企業だった池島』

どこか近場をドライブしようと思う時は、決まってルート202を走ります。
海を眺めながら、時間があれば教会にも立ち寄り、道の駅でちょっと休憩。
炭鉱のあった池島や崎戸の風景も見飽きることがありません。
今日は遠く五島列島もよく見えています。
2013池島1


青い空と海に、四角い白い家。
地中海のリゾート地を想わせるような池島の風景。
中心のアパート群の左端にはZ型の池島炭鉱第二竪坑櫓と巻揚機械室、右側には工場群が見えます。
炭鉱最盛期には約8,000人が島内で暮らしていましたが、現在の人口は約200人。
住人の消えたアパートが、秋の日差しに輝いています。
2013池島2


今日は崎戸までドライブすることしました。
もちろん秋の「さいかい丼フェア」もお楽しみの一つなんですよね。→ さいかい丼フェア

chibitaro0102 at 23:30コメント(1)トラックバック(0) 

2013年03月25日

『長崎市民による洋館保存運動のきっかけとなった場所』

現在、この近くには長崎税務署や県警など公的建物があり、岸壁には保安庁の巡視船が係留される静かな場所になっていますが、1985(昭和60)年までは三菱高島炭鉱の事務所として建築された木造洋館「炭坑舎」がありました。
炭鉱舎3


炭坑舎は桟橋に繋がり、三菱造船所初の鉄製汽船「夕顔丸」が高島や端島(軍艦島)に多くの人や物資を運んだ時代もありました。
炭鉱舎2


木造洋館「炭坑舎」と三菱社船「夕顔丸」。
今この場所を訪れても、往事の賑わいを感じられるものは何一つないのですが、唯一、石碑がポツンと立っているのを見つけました。
炭鉱舎4


石碑には次のように記されていました。

史跡 三菱合資会社長崎支店跡 三菱マテリアル株式会社

この地は、三菱の創業者岩崎彌太郎が明治十四年三月三十一日、後藤象二郎の経営する後藤炭坑商局(通称「炭坑舎」)を譲り受け、以後、高島炭坑の石炭販売を主業務とする他三菱造船所の設立にも大切な役割を果たす等、三菱の内外の本拠地として礎を築き、三菱の発展に寄与したところである。明治三十四年五月頃には、木造洋館二階建での事務所に建替えられ、三菱合資会社長崎支店が営業を行なっていた。その後、石炭事業の独立に伴い、三菱鉱業(株)並びに三菱石炭鉱業(株)に継承されてきたが、昭和六十年一月、石炭事業の使命を終え、建物は解体された。以上の経緯を後世に伝承するため、これを建立する。

平成十三年三月吉日

炭坑舎が解体される際には、保存を求める市民運動がありました。
市民自らが街のあり方を考えるきっかけになったと言われています。

長崎の発展を築いた石炭産業、文化財としても価値があった「炭坑舎」。
解体後16年目にして、三菱が記念碑を建立しています。
本来であれば、市が当時の写真付きで建立し後世に伝えるべきものだと思うのですが・・・。
炭鉱舎1


昭和40年代のゼンリンの地図です。
炭坑舎には複数の会社が入っています。隣には「夕顔食堂」があります。
「宝焼酎工場」長崎で焼酎を造っていたの?って感じですね。
高島に住む子弟が市内の学校に通うための「高島学生寮」。
「空ビン置場」に「鉄材置場」。広い「貯炭場」
今よりずっと活気があったように感じますね。
炭鉱舎5


現在、長崎と高島を結ぶ船の名は「コバルトクイーン」。
街や港の風景は変わっても、できれば「夕顔丸」という名前は大切に受け継いで欲しかった。
音や言葉の響きだけでも、故郷を思い出すきっかけになると思うのです。
「夕顔丸」、長崎に似合いのとても優しい響きだと思いませんか・・・。

chibitaro0102 at 19:29コメント(9)トラックバック(0) 
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