戦争遺構

2013年05月13日

撮影日:2013(H25).05.04

『天を回らし戦局を逆転させる兵器として生まれた人間魚雷』

戦局の悪化に伴い兵器庫に眠っていた「九三式酸素魚雷」を改造し、兵士が自ら操縦して敵艦に体当たりする特攻兵器とした生まれ変わった「人間魚雷回天」。

大神回天基地1


回天の訓練基地として山口県の大津島、光、平生、そして大分県の大神(おおが)に基地が配置されました。

続きを読む

chibitaro0102 at 21:55コメント(2)トラックバック(0) 

2013年02月23日

『11歳の少年の目に映ったものは何だったのか・・・。』

1945(S20)年の敗戦時、海外に残された日本人は約660万人(軍人・軍属350万人・一般人310万人)以上と言われています。

敗戦による終戦、居場所を失った日本人は追われるように着の身着のまま引揚船と呼ばれる貨物船に乗せられ、横浜、浦賀、舞鶴、呉、仙崎、下関、門司、博多、佐世保(浦頭)、鹿児島など指定された引揚港に帰ってきます。

浦頭2


このうち佐世保(浦頭)と博多には、ともに引揚港の中では最も多い約140万人の方が戻ってこられます。
シベリアなどへ抑留された方々を最後まで受け入れた舞鶴港が約70万人弱ですから、いかに多くの方々がをこの浦頭から祖国の第一歩踏み出されたことか・・・。
「浦頭引揚記念資料館展示写真より」
浦頭5


今では港周辺も整備され、当時と変わらないものは遠くの山並みと岸壁の石積みや階段くらいでしょうか。
浦頭3


亡き親父が生まれたのは昭和9年、出生地は関東州大連市早苗町。
生まれて11歳まで過ごした大連、引揚に関わる出来事、初めて目にする日本の風景・・・。
もっと親父から話を聞いておくべきでした。
浦頭4


終戦時海外にいた660万人のうち、引揚ることができた数は約630万人と言われています。
祖国に帰ることができず亡くなった方、現地に留まるしかなかった方々が大勢います。
栄養失調に疫病、抑留と強制労働、差別・・・。現代では想像もできない世界が存在します。
明るい親父でしたが引き揚げの話はしませんでした。話したくない、話せない真実があったのだと思います。
今、隣国と言い争いのような状況になっていますが、二度とこの悲しい歴史をくり返すような行為は行ってはいけません。


chibitaro0102 at 19:47コメント(0)トラックバック(0) 

2012年12月10日

撮影日:2012(H24).12.09

『コンクリートで塞がれた壕に、再び光が差す日はやってくるのか・・・。』

江戸時代より長崎港周辺は、四郎ケ島、伊王島、神ノ島に佐賀藩が当時最先端の台場を築くなど、国防の要となっていました。

また、明治期になってからは、1899(明治32)年に佐世保要塞砲兵連隊の一個大隊が長崎に配置され、翌年、長崎要塞司令部が設置されました。
長崎要塞は、長崎港及び港内の造船施設などの防衛のために建設されたもので、3ヶ所の砲台によって構成されていました。
3ヶ所の砲台とは、神ノ島低砲台、神ノ島高砲台、そして蔭ノ尾島砲台です。

神ノ島高砲台6


神ノ島低砲台と蔭ノ尾島砲台にはそれぞれ2台の90mm速射カノン砲が長崎湾口に砲口を向け、神ノ島高砲台は280mm榴弾砲8門が港外に砲口を向け設置されていたと聞きます。

続きを読む

chibitaro0102 at 20:54コメント(0)トラックバック(0) 

2012年12月08日

『圧倒的な存在感で、今は平和を送信する3本の塔』

大村市松原町の海岸から直線距離にして約20km、大村湾の入り口「針尾」に立つ3本の塔。
空気の澄んだ日であれば、天に伸びる巨大な姿をはっきりと視認することができる。

日露戦争において通信の重要性を認識した旧日本海軍は、日本周辺の通信網を整備するため千葉、台湾、佐世保の三箇所に無線局建設を計画した。

1915(大正4)年に「船橋無線電信所」が完成、次ぎに「鳳山無線電信所(台湾高雄県)」が完成。そして最後に1918(大正7)年11月に着工、1922(大正11)年の期間を要し「佐世保無線電信所」が完成した。
hario1


1941(昭和16)年12月8日、71年前の今日は日本軍がハワイ真珠湾を奇襲し、その後3年9カ月に及ぶ太平洋戦争に突入した日である。
(こちらは野岳方角から眺めた写真)
hario3


開戦前の12月2日、作戦開始暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を機動部隊に発信したのが「佐世保電信所」と言われているが、現在は瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」が暗号文を打電、呉通信隊を経由して「船橋電信所」が真珠湾攻撃部隊へ発信したと言われている。

日本側は奇襲成功暗号「トラ・トラ・トラ」、米側は「リメンバー パールハーバー」を合言葉に、この後長い戦いへの道を歩んでいく。
hario2


当時、遠距離無線通信には長波が有用であると考えられ、高さが135mある鉄筋コンクリートの巨塔が立ち上がった。
塔の高さ、完成度、さらには90年の歳月を経ても劣化することがない美しい姿を見ると、当時の海軍技術者の能力、建築技術の高さがよく分かる。
佐世保広報1


今は長波や短波の仕組みを知らなくても、ありとあらゆる情報が手のひらの携帯端末からでも取り出せる時代。
情報が多いほど、どれが正しいものであるか判断し、考える能力が必要な時代になっている。
広報させぼ2


佐世保無線電信所は、「針尾(無線)送信所」と呼ばれ紹介されることが多いようですが、当時の海軍省資料には「佐世保無線電信所」と記述されています。

最後の2枚の写真は、佐世保市の「広報させぼ・平成21年度2月号」より。→ 広報佐世保HPへ

個人的な感想ですが「広報させぼ」の表紙は、他市の広報誌より「開いて見てみよう!」という感覚になりますね。

chibitaro0102 at 13:15コメント(2)トラックバック(0) 

2012年08月09日

「平成24年 長崎平和宣言」

 人間は愚かにも戦争をくりかえしてきました。しかし、たとえ戦争であっても許されない行為があります。現在では、子どもや母親、市民、傷ついた兵士や捕虜を殺傷することは「国際人道法」で犯罪とされます。毒ガス、細菌兵器、対人地雷など人間に無差別に苦しみを与え、環境に深刻な損害を与える兵器も「非人道的兵器」として明確に禁止されています。
 1945年8月9日午前11時2分、アメリカの爆撃機によって長崎に一発の原子爆弾が投下されました。人間は熱線で黒焦げになり、鉄のレールも折れ曲がるほどの爆風で体が引き裂かれました。皮膚が垂れ下がった裸の人々。頭をもがれた赤ちゃんを抱く母親。元気そうにみえた人々も次々に死んでいきました。その年のうちに約7万4千人の方が亡くなり、約7万5千人の方が負傷しました。生き残った人々も放射線の影響で年齢を重ねるにつれて、がんなどの発病率が高くなり、被爆者の不安は今も消えることはありません。
 無差別に、これほどむごく人の命を奪い、長年にわたり人を苦しめ続ける核兵器がなぜいまだに禁止されていないのでしょうか。
  昨年11月、戦争の悲惨さを長く見つめてきた国際赤十字・赤新月運動が人道的な立場から「核兵器廃絶へ向かって進む」という決議を行いました。今年5月、ウィーンで開催された「核不拡散条約(NPT)再検討会議」準備委員会では、多くの国が核兵器の非人道性に言及し、16か国が「核軍縮の人道的側面に関する共同声明」を発表しました。今ようやく、核兵器を非人道的兵器に位置付けようとする声が高まりつつあります。それはこれまで被爆地が声の限り叫び続けてきたことでもあります。

heiwa1


 しかし、現実はどうでしょうか。
 世界には今も1万9千発の核兵器が存在しています。地球に住む私たちは数分で核戦争が始まるかもしれない危険性の中で生きています。広島、長崎に落とされた原子爆弾よりもはるかに凄まじい破壊力を持つ核兵器が使われた時、人類はいったいどうなるのでしょうか。
 長崎を核兵器で攻撃された最後の都市にするためには、核兵器による攻撃はもちろん、開発から配備にいたるまですべてを明確に禁止しなければなりません。「核不拡散条約(NPT)」を越える新たな仕組みが求められています。そして、すでに私たちはその方法を見いだしています。
 その一つが「核兵器禁止条約(NWC)」です。2008年には国連の潘基文事務総長がその必要性を訴え、2010年の「核不拡散条約(NPT)再検討会議」の最終文書でも初めて言及されました。今こそ、国際社会はその締結に向けて具体的な一歩を踏み出すべきです。
 「非核兵器地帯」の取り組みも現実的で具体的な方法です。すでに南半球の陸地のほとんどは非核兵器地帯になっています。今年は中東非核兵器地帯の創設に向けた会議開催の努力が続けられています。私たちはこれまでも「北東アジア非核兵器地帯」への取り組みをいくどとなく日本政府に求めてきました。政府は非核三原則の法制化とともにこうした取り組みを推進して、北朝鮮の核兵器をめぐる深刻な事態の打開に挑み、被爆国としてのリーダーシップを発揮すべきです。
 今年4月、長崎大学に念願の「核兵器廃絶研究センター(RECNA)」が開設されました。「核兵器のない世界」を実現するための情報や提案を発信し、ネットワークを広げる拠点となる組織です。「RECNA」の設立を機に、私たちはより一層力強く被爆地の使命を果たしていく決意です。

heiwa3


 核兵器のない世界を実現するためには、次世代への働きかけが重要です。明日から日本政府と国連大学が共催して「軍縮・不拡散教育グローバル・フォーラム」がここ長崎で始まります。
 核兵器は他国への不信感と恐怖、そして力による支配という考えから生まれました。次の世代がそれとは逆に相互の信頼と安心感、そして共生という考えに基づいて社会をつくり動かすことができるように、長崎は平和教育と国際理解教育にも力を注いでいきます。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は世界を震撼させました。福島で放射能の不安に脅える日々が今も続いていることに私たちは心を痛めています。長崎市民はこれからも福島に寄り添い、応援し続けます。日本政府は被災地の復興を急ぐとともに、放射能に脅かされることのない社会を再構築するための新しいエネルギー政策の目標と、そこに至る明確な具体策を示してください。原子力発電所が稼働するなかで貯め込んだ膨大な量の高レベル放射性廃棄物の処分も先送りできない課題です。国際社会はその解決に協力して取り組むべきです。

heiwa2


 被爆者の平均年齢は77歳を超えました。政府は、今一度、被爆により苦しんでいる方たちの声に真摯に耳を傾け、援護政策のさらなる充実に努力してください。
 原子爆弾により命を奪われた方々に哀悼の意を表するとともに、今後とも広島市、そして同じ思いを持つ世界の人たちと協力して核兵器廃絶に取り組んでいくことをここに宣言します。


2012年(平成24年)8月9日
長崎市長 田上 富久


11時02分 原爆犠牲者のご冥福と、宣言とおりの平和な世界が実現できることを願い私も黙祷を捧げた。

ブログカテゴリに「原子爆弾のこと」を追加、整理した。

chibitaro0102 at 20:00コメント(0)トラックバック(0) 
最新コメント
月別アーカイブ
記事検索
プロフィール

ちび太郎

QRコード
QRコード
ランキング
人気ブログランキングへ

にほんブログ村 地域生活(街) 九州ブログ 長崎県情報へ
にほんブログ村

・本HPの写真・図等の転載・転用等は禁止しております。

・メールでの連絡は下記へどうぞ! 
chibisaruku@yahoo.co.jp



  • ライブドアブログ