戦争遺構
2023年04月19日 12:00
撮影日:2023(R5).04.09
『廃墟跡地は更地のまま・・・』
2000年代からのインターネットの普及に併せ、特に個人のブログにて各地に点在する廃墟が画像として紹介されるようになります。興味があるないに関わらず多くの人がその姿や歴史、さらには場所まで知ることができるようになりました。
当時より廃墟の代表格は言うまでもなく「軍艦島(端島)」でしたが、九州では伊万里にある「川南造船所(川南工業浦之崎造船所とも呼ばれます)」がネット上で数多く紹介されていました。
川南造船所の創設者は川南豊作。缶詰製造で財を成し、後に長崎の香焼島にあった松尾造船所を買収、川南工業所と合併し川南工業株式会社を設立し造船業に進出しました。
戦時中、浦之崎造船所では1000トン級の輸送船(構造を簡略化した船舶)を増産するとともに、海軍の軍需工場指定であったことから人間魚雷「海龍」の製造も行っていました。
戦後は1955年(昭和30年)に破産宣告を受け造船所は閉鎖となりますが建物は放置され、2012年に解体されるまで廃墟として存在しました。
1947(S22)年11月02日に撮影された航空写真
赤丸の部分が廃墟として残った造船所部分になりますが、左側にも造船所が確認でき当時の川南造船所の規模がよく分かります。

1985(S60)年05月16日に撮影された航空写真
戦後40年、この地の建物だけが存在し、右側は大きく埋め立てが行われ、左側にあった工場群は存在しません。

さらに続く
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『廃墟跡地は更地のまま・・・』
2000年代からのインターネットの普及に併せ、特に個人のブログにて各地に点在する廃墟が画像として紹介されるようになります。興味があるないに関わらず多くの人がその姿や歴史、さらには場所まで知ることができるようになりました。
当時より廃墟の代表格は言うまでもなく「軍艦島(端島)」でしたが、九州では伊万里にある「川南造船所(川南工業浦之崎造船所とも呼ばれます)」がネット上で数多く紹介されていました。
川南造船所の創設者は川南豊作。缶詰製造で財を成し、後に長崎の香焼島にあった松尾造船所を買収、川南工業所と合併し川南工業株式会社を設立し造船業に進出しました。
戦時中、浦之崎造船所では1000トン級の輸送船(構造を簡略化した船舶)を増産するとともに、海軍の軍需工場指定であったことから人間魚雷「海龍」の製造も行っていました。
戦後は1955年(昭和30年)に破産宣告を受け造船所は閉鎖となりますが建物は放置され、2012年に解体されるまで廃墟として存在しました。
1947(S22)年11月02日に撮影された航空写真
赤丸の部分が廃墟として残った造船所部分になりますが、左側にも造船所が確認でき当時の川南造船所の規模がよく分かります。

1985(S60)年05月16日に撮影された航空写真
戦後40年、この地の建物だけが存在し、右側は大きく埋め立てが行われ、左側にあった工場群は存在しません。

さらに続く
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2021年12月13日 12:00
撮影日:2021(R3).12.05
撮影日:2012(H24).05.19
『橘湾に敵艦見ゆ』
80年前の12月8日は、太平洋戦争の契機となったハワイ真珠湾攻撃があった日でした。
ニュースやテレビ番組で当時の証言や映像をご覧になられた方も多かったのではないでしょうか。
さて、今回は久しぶりに戦争遺構の話、長崎市太田尾町に残る「枇杷崎射堡(しゃほ)基地」について報告します。
まず、「射堡」とは、海上の敵艦に対し陸上に格納している魚雷を発射し攻撃する施設のことです。
魚雷を海岸線の崖などをくり貫いた壕に格納し、指揮所からの命により海面へ敷設したレールで運搬し、圧縮空気によって発射するとされています。
射堡は戦況の悪化に伴い計画された「震洋」、「蛟竜」、「海龍」などの特攻作戦と同様に配置されたようです。
戦史には「〇〇射堡隊」といった部隊が存在するので、それ相応の設備や兵員が配置されていたようですが、詳細な調査報告がなく「射堡」についてはよく分からないのが現状です。

「枇杷崎射堡基地」と言われる魚雷格納庫(壕)等は、上の写真の赤部分に存在します。
子供の頃から磯遊びや魚釣りで太田尾を訪れるたびに、海岸に残るコンクリートや台座と配管、崖に掘られた穴がずっと気になっていましたが、近年のネット情報によりこれが「射堡」であることを知ることができました。
それでは、現在と過去撮った写真で「枇杷崎射堡基地」を見ていきたいと思います。
堤防先端から海岸に下りるとコンクリートで固めた歩道のような部分があります。
ここには後ほど出てくる圧縮空気の配管が埋設されているものと考えられます。

振り返るとこのような感じです。子供の頃から変わりません。
藪の中には関連する設備や建物の痕跡は何もありません。

崖の先端を取り巻くように続いています。歩く際には便利です。

裏側の海岸に出ました。土地は崖側は平ら、海面側は下がっています。
昔は崖側にコンクリート台座と配管がありましたが・・・。

さらに枇杷崎に向かって進みます。どこにでもある海岸です。

よく観察すると崩れたコンクリートの塊が転がっています。

これは四角い原型を留めている台座。

さらに進むと崖にある壕が見えてきます。

中は広くゴミも投棄されていません。大きな崩落も無く、奥行きは20m近くあります。

入口や内部をコンクリートで固めたような跡は、はっきりと確認できません。

ネットや資料によると壕は5つと記されていますが、4つは確認しました。
ほぼ等間隔で並んでいます。

ここからは過去(2012年)撮った写真です。
壕の状態は今とほとんど変わりませんが、撮影時には人為的にリュウゼツランや花が植えてあります。
誰かが隠れ家として使っているような感じでした。

壕の海面側に大きなコンクリートの塊がありましたが、現在は確認できません。

今はないコンクリート台座と配管がひと昔前にはありました。。

子供心にも一体何だろうと思わせる興味津々の残骸でした。

1948年の航空写真(国土地理院航空写真より引用)。
海に突き出る桟橋のようなものが4本確認できます。
何らかの軍事設備があったことは間違いないようです。

今は穏やかな風景が広がる太田尾地区ですが、80年前は敵との本土決戦に向けた設備が造られ、日夜訓練が行われていたことなど想像もできませんね。
長崎は戦争遺構の調査研究・報告が少ないような気がします。何とか当時の状況を記録し、平和への願いを込め後世に伝えて欲しいと願います。

今日は、子供の頃からずっと気になっている「枇杷崎射堡基地」のお話でした。
参考資料
「こどもと歩く戦争遺跡Ⅲ・熊本の戦争遺跡研究会編」図書
「みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"」HP


撮影日:2012(H24).05.19
『橘湾に敵艦見ゆ』
80年前の12月8日は、太平洋戦争の契機となったハワイ真珠湾攻撃があった日でした。
ニュースやテレビ番組で当時の証言や映像をご覧になられた方も多かったのではないでしょうか。
さて、今回は久しぶりに戦争遺構の話、長崎市太田尾町に残る「枇杷崎射堡(しゃほ)基地」について報告します。
まず、「射堡」とは、海上の敵艦に対し陸上に格納している魚雷を発射し攻撃する施設のことです。
魚雷を海岸線の崖などをくり貫いた壕に格納し、指揮所からの命により海面へ敷設したレールで運搬し、圧縮空気によって発射するとされています。
射堡は戦況の悪化に伴い計画された「震洋」、「蛟竜」、「海龍」などの特攻作戦と同様に配置されたようです。
戦史には「〇〇射堡隊」といった部隊が存在するので、それ相応の設備や兵員が配置されていたようですが、詳細な調査報告がなく「射堡」についてはよく分からないのが現状です。

「枇杷崎射堡基地」と言われる魚雷格納庫(壕)等は、上の写真の赤部分に存在します。
子供の頃から磯遊びや魚釣りで太田尾を訪れるたびに、海岸に残るコンクリートや台座と配管、崖に掘られた穴がずっと気になっていましたが、近年のネット情報によりこれが「射堡」であることを知ることができました。
それでは、現在と過去撮った写真で「枇杷崎射堡基地」を見ていきたいと思います。
堤防先端から海岸に下りるとコンクリートで固めた歩道のような部分があります。
ここには後ほど出てくる圧縮空気の配管が埋設されているものと考えられます。

振り返るとこのような感じです。子供の頃から変わりません。
藪の中には関連する設備や建物の痕跡は何もありません。

崖の先端を取り巻くように続いています。歩く際には便利です。

裏側の海岸に出ました。土地は崖側は平ら、海面側は下がっています。
昔は崖側にコンクリート台座と配管がありましたが・・・。

さらに枇杷崎に向かって進みます。どこにでもある海岸です。

よく観察すると崩れたコンクリートの塊が転がっています。

これは四角い原型を留めている台座。

さらに進むと崖にある壕が見えてきます。

中は広くゴミも投棄されていません。大きな崩落も無く、奥行きは20m近くあります。

入口や内部をコンクリートで固めたような跡は、はっきりと確認できません。

ネットや資料によると壕は5つと記されていますが、4つは確認しました。
ほぼ等間隔で並んでいます。

ここからは過去(2012年)撮った写真です。
壕の状態は今とほとんど変わりませんが、撮影時には人為的にリュウゼツランや花が植えてあります。
誰かが隠れ家として使っているような感じでした。

壕の海面側に大きなコンクリートの塊がありましたが、現在は確認できません。

今はないコンクリート台座と配管がひと昔前にはありました。。

子供心にも一体何だろうと思わせる興味津々の残骸でした。

1948年の航空写真(国土地理院航空写真より引用)。
海に突き出る桟橋のようなものが4本確認できます。
何らかの軍事設備があったことは間違いないようです。

今は穏やかな風景が広がる太田尾地区ですが、80年前は敵との本土決戦に向けた設備が造られ、日夜訓練が行われていたことなど想像もできませんね。
長崎は戦争遺構の調査研究・報告が少ないような気がします。何とか当時の状況を記録し、平和への願いを込め後世に伝えて欲しいと願います。

今日は、子供の頃からずっと気になっている「枇杷崎射堡基地」のお話でした。
参考資料
「こどもと歩く戦争遺跡Ⅲ・熊本の戦争遺跡研究会編」図書
「みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"」HP


2019年11月26日 01:00
撮影日:2019(R1)11.23
『平和を願う5,000本の灯』
今から100年前に造られた片島魚雷発射試験場。
2015年、この貴重な戦争遺構から恒久平和を願い続けたいという想いから始まった片島竹灯籠まつり。

5,000本を超える竹灯籠やキャンドルの灯が、遺構を優しく包み込んでいます。

いろんな国の子供たちが手を結んだバルーンアート。
海上の望楼に続く光の帯。

遺構の中にも「平和の樹タペストリー」

平和公園近くの「長崎誓いの火」から頂いた灯を取り囲むように来場者が灯したキャンドル

側面窓にもタペストリー

幻想的な雰囲気

GSOMIA、片島竹灯籠まつり、ローマ教皇の来県、戦争や平和について考えさせられる週末でしたね。
初めての片島竹灯籠まつりはとても素晴らしく、来年も必ず訪れようと思います。
『平和を願う5,000本の灯』
今から100年前に造られた片島魚雷発射試験場。
2015年、この貴重な戦争遺構から恒久平和を願い続けたいという想いから始まった片島竹灯籠まつり。

5,000本を超える竹灯籠やキャンドルの灯が、遺構を優しく包み込んでいます。

いろんな国の子供たちが手を結んだバルーンアート。
海上の望楼に続く光の帯。

遺構の中にも「平和の樹タペストリー」

平和公園近くの「長崎誓いの火」から頂いた灯を取り囲むように来場者が灯したキャンドル

側面窓にもタペストリー

幻想的な雰囲気

GSOMIA、片島竹灯籠まつり、ローマ教皇の来県、戦争や平和について考えさせられる週末でしたね。
初めての片島竹灯籠まつりはとても素晴らしく、来年も必ず訪れようと思います。
2017年03月14日 00:08
撮影日:2013(H25).04.14
『豊予要塞-築かれた巨大要塞』
海に囲まれた日本は、軍備拡大の明治期から太平洋戦争の終わりまで、海上の敵艦船からの攻撃に対する防御のため、重要地域に砲台や堡塁を築く「○○要塞地帯」を配置しました。

関サバ・関アジで有名な豊後水道(別称豊予海峡)は、日本内地への敵艦船の進入航路、また、呉の日本艦隊が太平洋へ出撃する重要航路の一つでした。
本日は写真の赤丸部分に造られた「丹賀砲台」について・・・。
写真はクリックすると拡大します。
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『豊予要塞-築かれた巨大要塞』
海に囲まれた日本は、軍備拡大の明治期から太平洋戦争の終わりまで、海上の敵艦船からの攻撃に対する防御のため、重要地域に砲台や堡塁を築く「○○要塞地帯」を配置しました。

関サバ・関アジで有名な豊後水道(別称豊予海峡)は、日本内地への敵艦船の進入航路、また、呉の日本艦隊が太平洋へ出撃する重要航路の一つでした。
本日は写真の赤丸部分に造られた「丹賀砲台」について・・・。
写真はクリックすると拡大します。
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2016年09月30日 17:22
『日本遺産って何だっけ?』
今年の夏は仕事が何かと忙しく、帰宅してはエアコンのない部屋で蒸されぐったり・・・。
ブログの更新は夏期休養とさせていただきました。訪問いただいた皆様、申し訳ありませんでした。
やっと季節が変わり、心身ともに落ち着いたので2ヶ月ぶりに更新します。
では、前回の記事「この建物はなんでしょう?」の回答から・・・。
答えは高さ136mの3つの塔が、300m間隔の正三角形に配置されている「佐世保無線電信所(針尾送信所)」です。
簡単でしたね!
(油庫と3号塔・油庫はガイドの方の詰所、見学の受付として活用されています)

いざ見学できる3号塔へ。

佐世保無線電信所は、旧日本海軍が最新の鉄筋コンクリート技術と、巨費を投じ建設した長波通信施設です。
完成は1922(大正11)年。着工から4年の歳月を要しました。
長波無線塔は1920年前後の短い期間に集中して造られましたが、現在は殆どが解体撤去されており、この佐世保無線電信所は局舎と無線塔が現存する国内唯一の施設になっています。
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今年の夏は仕事が何かと忙しく、帰宅してはエアコンのない部屋で蒸されぐったり・・・。
ブログの更新は夏期休養とさせていただきました。訪問いただいた皆様、申し訳ありませんでした。
やっと季節が変わり、心身ともに落ち着いたので2ヶ月ぶりに更新します。
では、前回の記事「この建物はなんでしょう?」の回答から・・・。
答えは高さ136mの3つの塔が、300m間隔の正三角形に配置されている「佐世保無線電信所(針尾送信所)」です。
簡単でしたね!
(油庫と3号塔・油庫はガイドの方の詰所、見学の受付として活用されています)

いざ見学できる3号塔へ。

佐世保無線電信所は、旧日本海軍が最新の鉄筋コンクリート技術と、巨費を投じ建設した長波通信施設です。
完成は1922(大正11)年。着工から4年の歳月を要しました。
長波無線塔は1920年前後の短い期間に集中して造られましたが、現在は殆どが解体撤去されており、この佐世保無線電信所は局舎と無線塔が現存する国内唯一の施設になっています。
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