近代化遺産・産業遺産

2023年09月14日 12:00

撮影日:2023(R5).09.09

『関東大震災の状況を欧州へ送信した無線塔』

旧佐世保無線電信所(通称・針尾送信所)は2013年(平成25)に国指定重要文化財に指定され、「針尾無線塔保存会」の方々による施設管理・見学ガイド等が行われています。
駐車場、管理事務所、トイレ、施設パンフレット、清涼飲料水の自販機が整備され、時には地元野菜の販売も行われています。

3基の無線塔のうち1号塔(掘削調査が実施された)と3号塔は間近に見学ができます。特に3号塔は入口が解放されており塔内部の見学が可能です。2号塔は私有地に隣接しているため、立入禁止区域となっています。

「3号無線塔」
広角レンズがないと近接からの全体像は撮影できません。
今回は10mm広角レンズを持参し撮影しました。
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円周状に縦約1.37mの木を縦に並べた型枠の跡が鮮明に残っています。型枠を100回積み上げて137mの頂上に到達したのです。
コンクリートの材料として海砂は使用せず川の砂や石をさらに真水で洗って使用し、長時間かけて突きたたく工法により塩害やコンクリートの中性化による劣化進行を防いでいます。
爆裂が起き急速に劣化が進行する軍艦島のRC構造物とは状態が大きく異なりますね。
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3号塔は針尾瀬戸、新西海橋を望みます。
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内部から上部を眺めます。あまりの高さに首が・・・。
窓からの光が環になって続きます。
内部にも木枠の跡が鮮明に残っています。
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ウインチや防振装置が残されています。
頂上へは壁面の梯子を壁側から取りつき上っていきます。円錐状になっているので高く上るほど視点が底に向かい恐怖心が増すような気がします。
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3号塔説明板
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晴れた日は対岸の大村市からも3つの塔が確認できます。
塔を遮るものがなく、遠くからでも「あれは一体なんだ!?」と思う異様な建物です。
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針尾送信所に関する最も有名な出来事は、1941年(昭和16)12月、日本海軍がハワイ真珠湾のアメリカ軍への奇襲攻撃を命じる暗号電文「ニイタカヤマノボレ1208」を中継したことでしょう。
この暗号が針尾送信所から送信されたのかについては諸説あり定かではないようですが、防衛研究所によると連合艦隊旗艦「長門」から発した「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号を中継して中国大陸や南方に送信したと言われています。
また、今回の見学の際に市文化財課の学芸員の方より、「100年前に発生した関東大震災の情報は、針尾送信所より欧州に向けて送信されました」と説明がありました。
関東大震災の発生日は1923年(大正12)9月1日、針尾送信所が完成したのは1922年、長波通信が主流であった当時を考えると、針尾から送信されたことは理にかなっています。

本日は大正時代の塔状コンクリート構造物として唯一現存する針尾送信所無線塔の話でした。



2023年09月13日 12:00

撮影日:2023(R5).09.09

『-灰塔の礎 出現-』

旧佐世保無線電信所(通称・針尾送信所)施設は、旧日本海軍が1918年(大正7)から1922年(大正11)まで4年の歳月と総工費155万円(現在の約250億円)の巨費を投じ建設した長波通信の送信施設である。

今はのどかなミカン畑に囲まれる敷地内には、高さ136mの鉄筋コンクリート製の無線塔が3基、300m間隔の正方形を形どりそびえ立ち、その中心部には鉄筋コンクリート造りの電信室が現存する。

昨年より建設から100年を経過し将来に向けての保存・維持に向けた実地調査が行われている。分かりやすく例えると文化財の健康診断で令和8年度まで実施される。
今回、詳細な図面等が現存しない136mの無線塔の基礎がどのようになっているのか、形状はどのようになっているのか、コンクリート内部の鉄筋の状態はどのようになっているのかを確認するため、建設から101年目にして初めての掘削調査が行われ、9月9日・10日の2日間に限り一般への特別公開が実施されたので見学してきた。

関心度も高く県外ナンバーの車も多かった。見学待ちの列が続く。
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1号無線塔と見学用デッキ。25名程度がデッキに上がり見学する。
文化財保護課担当者から分かりやすい説明を聞きながら地中を覗き込んだ。

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掘削は1号無線塔で地下6mまで実施。そこには強固な岩盤が存在し、その上に裏返した皿のような基礎が確認された。
また、コンクリートを10数センチ斫った部分(コンクリートの色が異なる部分)からは劣化することない鉄筋が確認されている。
塔136mに対し思ったより厚さ幅共に短い気がしたが、強固な岩盤と緻密な構造計算により微動だにすることなく塔は今も立ち続けている。当時の建築技術の高さを伺い知ることができる。

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調査終了後、掘削現場は埋め戻されるとのこと。
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戦争遺構であり近代化遺産。
土木、無線技術、歴史的にみて重要な施設、これからも大切に保存されることを願います。



2022年06月14日 18:00

撮影日:2022(R4).04.09

『全戸南向き、日当たり良好!』

市の公表では5.31現在、池島の人口は109名(男67・女42・世帯数83)となっています。
一見、誰も居ないと思ったアパートから人の声やテレビの音が聞こえる時があります。
思ったよりコミュニティバスや軽トラが走る姿をよく見かけます。

先日テレビで池島の番組があっていましたが、「不便でもここで暮らすのが一番」と花好きのおばあちゃんが話されているのが印象的でした。

南向きの暖かな空き地は、多年草のガザニアがたくさん咲き花壇になっています。
花があるだけでアパートには人の姿や声があるような感覚になりました。
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坂の上に自動車が停まっています。こちらのアパートには住人の方がいらっしゃるのでしょう。
花も樹も手入れされ、楽しんで暮らされていることがうかがえます。
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撮り溜めた池島の写真を見ると北側からの撮影が多いことに気が付きました。
無意識のうちに廃墟感や暗い部分の構図を選んでいたのかもしれません。
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今日は全戸南向き、日当たり良好!生活感や季節感を感じられる池島のいまをお届けしました。


2022年06月13日 12:00

撮影日:2022(R4).04.09

『ここに会社がありました!』

大きさが異なる山を模したような三角錐の門柱。花崗岩を切り出した石積みでしょうか?
埋め込まれた名板には「松島炭鉱株式会社 池島鉱業所」。
この島に大企業が巨額の投資を行い、多くの労働者を雇用し石炭事業を行っていた証です。
池島炭鉱は1960年代に操業を開始した新しい炭鉱であり、島という隔離された場所であったからでしょうか、入口は一般的な門扉を構えるような造りではなく、傍に守衛室もなく、明るく近代的なイメージの門柱となっています。

2022.04
現在は、上部にある総合事務所や立坑への無断立ち入りを禁じるためロープが張られ、伐採された木々が積み上げられ通路の存在を隠しています。
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2008.08
前年度まで炭鉱技術移転五カ年計画が行われていたこともあり、総合事務所は利用されていた思います。通路はまだ封鎖されていませんでした。
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2022.04
現在も「鉱業所」のバス停は残っています。
昔は大型バス、今は幼稚園の送迎で使われるようなコミュニティバスが運行しています。
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2022.04
船の便に合わせてあるのか、時間帯によっては便数が多いような気がします。
ここで下車する人が多いとは思えませんが、それでも「鉱業所」というバス停が残っていることは嬉しく感じます。
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2008.02
こちらは三池炭鉱(大牟田市)の三川坑に残る正門と名板です。三川坑は昭和天皇のご入坑があり、戦後復興となる多くの石炭を生産しました。
また「総資本対総労働」が激突した三池争議の舞台であり、戦後最大の炭じん爆発事故があった場所としても知られています。
現在は大牟田市近代化産業遺産として正門は保存、内部の斜坑なども見学できるよう整備されています。
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炭鉱が閉山するといわゆる箱モノと呼ばれる施設は老朽化も含めその殆どが解体されます。
一部、炭鉱のシンボルと呼ばれる竪坑櫓などが歴史の証人として保存されることはあっても、社有地自体が処分されるため門柱が残ことは稀だと思います。
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2006.12
三井三池炭鉱最後の山「有明鉱」1997年閉山。
観音開きの鉄扉、内には守衛室。
現在はソーラー発電所となり、炭鉱施設は何一つ残っていません。
2006.12.10・有明鉱 008


池島に残る「松島炭鉱株式会社 池島鉱業所」の門柱と名板。
将来、会社の施設や敷地管理の手段が変わると撤去されてしまうことも考えられます。
今日はここに会社があったことのお話でした。




2022年05月16日 12:30

撮影日:2022(R4).04.09

『これが日常、これが現実・・・。』

今回は選炭工場群と同様に、池島に上陸し先ず目に飛び込んでくる発電所の現状です。

池島発電所は1967年(昭和42年)に完成。
選炭過程で生じた微粉炭を燃料としていました。出力は8,600kw。
池島炭鉱は、九州電力から海底ケーブルで送られる電気と池島発電所の電気を使用し操業していました。電気的にいう並列運転で電力を供給していました。
また、ボイラーの排熱を利用して海水を淡水化する造水装置も設置し、海水から1日に2,650tの真水を造り、島内の需要を賄っていました。
池島炭鉱閉山(2001年・H13)後の平成14年3月に廃止。

淡水化装置に関する過去記事 
→ 池島 2014 その4・海水淡水化装置(長崎市池島町)

では、過去と今の写真です。

2008年(H20)8月
まだ塗装が残っている部分もあります。
内部構造も維持できています
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通路、階段、鉄柵等、破損や脱落は見られません。
電気集塵機の大きなダクトも繋がっています。
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2022年(R4)4月
遠くからの全体像は変化が無いようですが・・・。
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近づいて見ると・・・。
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型枠の太い鉄骨以外は殆ど損壊、崩落しています。
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奥の選炭工場群と同様に崩落しています。
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昨今、池島は「非日常」「ノスタルジック」「幻想的」・・・を体感できる場所だと数多く紹介されています。
確かに廃墟となり崩れていく工場や人が消えたアパート群を見ると時の流れを痛感し、私たちの日常生活とはかけ離れた異空間のように感じますが、池島の歴史や関わりのある人達にとっては、決して「非日常」ではなく「日常」「現実」の姿だと思います。
形あるものが崩れ消え去るように私たちの心も移ろい行き、歴史や現実ですら忘れてしまうのでしょうか・・・。
今やデジタルの時代、その時々の事象をタイミング良く、正しく記録していくことが重要だと感じています。

今日は発電所と造水装置のお話でした。つづく・・・。

空中映像(YouTubeより引用) 
→ 池島炭鉱跡/長崎ドローン4K空撮(NAP DRONE TEAM)



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