2017年03月14日 00:08
丹賀砲台跡(大分県佐伯市鶴見大字丹賀浦)
撮影日:2013(H25).04.14
『豊予要塞-築かれた巨大要塞』
海に囲まれた日本は、軍備拡大の明治期から太平洋戦争の終わりまで、海上の敵艦船からの攻撃に対する防御のため、重要地域に砲台や堡塁を築く「○○要塞地帯」を配置しました。

関サバ・関アジで有名な豊後水道(別称豊予海峡)は、日本内地への敵艦船の進入航路、また、呉の日本艦隊が太平洋へ出撃する重要航路の一つでした。
本日は写真の赤丸部分に造られた「丹賀砲台」について・・・。
写真はクリックすると拡大します。
『豊予要塞-築かれた巨大要塞』
海に囲まれた日本は、軍備拡大の明治期から太平洋戦争の終わりまで、海上の敵艦船からの攻撃に対する防御のため、重要地域に砲台や堡塁を築く「○○要塞地帯」を配置しました。

関サバ・関アジで有名な豊後水道(別称豊予海峡)は、日本内地への敵艦船の進入航路、また、呉の日本艦隊が太平洋へ出撃する重要航路の一つでした。
本日は写真の赤丸部分に造られた「丹賀砲台」について・・・。
写真はクリックすると拡大します。
1919年(大正8年)、佐賀関-高島-佐田岬のラインに防御砲台を築くことが決定。
1921年(大正10年)、ワシントン海軍軍縮条約において米・英・日の軍艦保有率は5・5・3の比率に決定され、軍拡中の日本は建造中の戦艦・巡洋艦・旧艦を廃艦もしくは空母、標的艦等に転用しなければならなくなります。
軍部は、軍縮により本土前線の海上における戦力削減を危惧し、廃艦等となる戦艦の主砲を陸上砲台で再利用することを決定するのです。

1927年(昭和2年)、現・佐伯市鶴見大字丹賀浦の標高50mの台地に戦艦の主砲を設置すべく砲塔井(大砲を設置するための地中基礎)の工事が開始、1930年(昭和5年)からは砲塔45口径30センチ2連装砲の据え付け工事が開始され、翌1931年(昭和6年)9月に竣工。
公称「鶴見崎30センチ砲塔砲台」、通称「丹賀砲台」です。
砲台入口の迷彩色塗装は当時のものです。
左端に忠霊塔があり、主砲弾が門柱として置かれていますが、その大きさに驚かされます。

入口前面の海には小さな荷揚げ用と思われる桟橋があります。
クレーンの基礎のような跡、弾薬の荷揚げも行われていたのでしょうか・・・。

上部の砲塔井へは階段、またはリフトを使用します(現在リフトは改修中)。
弾薬もこの斜坑を使い上部弾薬庫へと運搬されていたのでしょう。

砲塔井周辺部には、弾薬庫、水圧畜力機室、主動力室などがあります。
ひんやりと感じる白壁の地下通路。戦時下の緊張感を感じます。

砲塔井に据え付けられた主砲は、1923年(大正12年)に老朽艦として廃艦となった鞍馬型一等巡洋艦「伊吹」の後部41式45口径30センチ2連装砲塔でした。
当時の技術では難工事とされていました。

(伊吹の画像はウィキペディアより引用)
『砲腔爆発大事故』
1941年(昭和16年)になり、対英米関係が緊迫し豊予要塞に緊急戦備が発令され、豊予要塞司令部、同重砲兵連隊並びに陸軍病院の戦時編成が命じられます。
翌1942年(昭和17年)1月、重砲兵連隊は丹賀砲台の実弾試射を実施することになりますが、この試射時に弾が砲腔内で爆発するという大事故が発生します。
事故は左右両砲交互に各4発の発射を行っていたところ、最後の1発である右砲発射において弾が砲空内砲身部分で爆発したのです。
砲室内にいた連隊長以下16名即死、弾薬室及びその下方に居た28名は重症又は軽傷。
砲塔井、砲塔、周辺装置も破壊され使用不能となる大事故でした。
砲塔井を上部から覗いた写真です。
螺旋階段に目が移りがちですが、周りのコンクリートがデコボコに破壊されている様子が分かります。爆発の威力のすさまじさを目の当たりにできます。

今は砕けたコンクリート壁しか残っていませんが、当時は主砲を動かすための金属プレートや歯車など多くの機械が設置されていたはずです。

底部から螺旋階段、天井ドームを見上げた写真です。

二階堂酒造のCMで螺旋階段とドームは登場します。記憶にある方も多いのでは!
ドーム外に出ると豊後水道を見渡す景色が広がっています。
20キロ以上離れた敵艦へ弾は飛んでいく計画でしたが、この事故により1発の弾も発射することなく丹賀砲台は役割を終えることになりました。

次回も周辺に点在する要塞施設について記したいと思います。
1921年(大正10年)、ワシントン海軍軍縮条約において米・英・日の軍艦保有率は5・5・3の比率に決定され、軍拡中の日本は建造中の戦艦・巡洋艦・旧艦を廃艦もしくは空母、標的艦等に転用しなければならなくなります。
軍部は、軍縮により本土前線の海上における戦力削減を危惧し、廃艦等となる戦艦の主砲を陸上砲台で再利用することを決定するのです。

1927年(昭和2年)、現・佐伯市鶴見大字丹賀浦の標高50mの台地に戦艦の主砲を設置すべく砲塔井(大砲を設置するための地中基礎)の工事が開始、1930年(昭和5年)からは砲塔45口径30センチ2連装砲の据え付け工事が開始され、翌1931年(昭和6年)9月に竣工。
公称「鶴見崎30センチ砲塔砲台」、通称「丹賀砲台」です。
砲台入口の迷彩色塗装は当時のものです。
左端に忠霊塔があり、主砲弾が門柱として置かれていますが、その大きさに驚かされます。

入口前面の海には小さな荷揚げ用と思われる桟橋があります。
クレーンの基礎のような跡、弾薬の荷揚げも行われていたのでしょうか・・・。

上部の砲塔井へは階段、またはリフトを使用します(現在リフトは改修中)。
弾薬もこの斜坑を使い上部弾薬庫へと運搬されていたのでしょう。

砲塔井周辺部には、弾薬庫、水圧畜力機室、主動力室などがあります。
ひんやりと感じる白壁の地下通路。戦時下の緊張感を感じます。

砲塔井に据え付けられた主砲は、1923年(大正12年)に老朽艦として廃艦となった鞍馬型一等巡洋艦「伊吹」の後部41式45口径30センチ2連装砲塔でした。
当時の技術では難工事とされていました。

(伊吹の画像はウィキペディアより引用)
『砲腔爆発大事故』
1941年(昭和16年)になり、対英米関係が緊迫し豊予要塞に緊急戦備が発令され、豊予要塞司令部、同重砲兵連隊並びに陸軍病院の戦時編成が命じられます。
翌1942年(昭和17年)1月、重砲兵連隊は丹賀砲台の実弾試射を実施することになりますが、この試射時に弾が砲腔内で爆発するという大事故が発生します。
事故は左右両砲交互に各4発の発射を行っていたところ、最後の1発である右砲発射において弾が砲空内砲身部分で爆発したのです。
砲室内にいた連隊長以下16名即死、弾薬室及びその下方に居た28名は重症又は軽傷。
砲塔井、砲塔、周辺装置も破壊され使用不能となる大事故でした。
砲塔井を上部から覗いた写真です。
螺旋階段に目が移りがちですが、周りのコンクリートがデコボコに破壊されている様子が分かります。爆発の威力のすさまじさを目の当たりにできます。

今は砕けたコンクリート壁しか残っていませんが、当時は主砲を動かすための金属プレートや歯車など多くの機械が設置されていたはずです。

底部から螺旋階段、天井ドームを見上げた写真です。

二階堂酒造のCMで螺旋階段とドームは登場します。記憶にある方も多いのでは!
ドーム外に出ると豊後水道を見渡す景色が広がっています。
20キロ以上離れた敵艦へ弾は飛んでいく計画でしたが、この事故により1発の弾も発射することなく丹賀砲台は役割を終えることになりました。

次回も周辺に点在する要塞施設について記したいと思います。