2016年09月30日 17:22
佐世保無線電信所(佐世保市針尾中町)
『日本遺産って何だっけ?』
今年の夏は仕事が何かと忙しく、帰宅してはエアコンのない部屋で蒸されぐったり・・・。
ブログの更新は夏期休養とさせていただきました。訪問いただいた皆様、申し訳ありませんでした。
やっと季節が変わり、心身ともに落ち着いたので2ヶ月ぶりに更新します。
では、前回の記事「この建物はなんでしょう?」の回答から・・・。
答えは高さ136mの3つの塔が、300m間隔の正三角形に配置されている「佐世保無線電信所(針尾送信所)」です。
簡単でしたね!
(油庫と3号塔・油庫はガイドの方の詰所、見学の受付として活用されています)

いざ見学できる3号塔へ。

佐世保無線電信所は、旧日本海軍が最新の鉄筋コンクリート技術と、巨費を投じ建設した長波通信施設です。
完成は1922(大正11)年。着工から4年の歳月を要しました。
長波無線塔は1920年前後の短い期間に集中して造られましたが、現在は殆どが解体撤去されており、この佐世保無線電信所は局舎と無線塔が現存する国内唯一の施設になっています。
今年の夏は仕事が何かと忙しく、帰宅してはエアコンのない部屋で蒸されぐったり・・・。
ブログの更新は夏期休養とさせていただきました。訪問いただいた皆様、申し訳ありませんでした。
やっと季節が変わり、心身ともに落ち着いたので2ヶ月ぶりに更新します。
では、前回の記事「この建物はなんでしょう?」の回答から・・・。
答えは高さ136mの3つの塔が、300m間隔の正三角形に配置されている「佐世保無線電信所(針尾送信所)」です。
簡単でしたね!
(油庫と3号塔・油庫はガイドの方の詰所、見学の受付として活用されています)

いざ見学できる3号塔へ。

佐世保無線電信所は、旧日本海軍が最新の鉄筋コンクリート技術と、巨費を投じ建設した長波通信施設です。
完成は1922(大正11)年。着工から4年の歳月を要しました。
長波無線塔は1920年前後の短い期間に集中して造られましたが、現在は殆どが解体撤去されており、この佐世保無線電信所は局舎と無線塔が現存する国内唯一の施設になっています。
何度訪れても、圧倒的な存在感です。
壁面をよく見ると、四角い穴が空いていますね。これが窓の正体です。

高さ136m。塔内は真っ暗かと思っていましたが、12~13m間隔で4方向に窓が設置され、天気の良い日は上部まで明るい光の輪が続いています。
窓枠のように見えるものは、実際に窓枠であるのか、開口部の木製型枠が外れているのか?はっきりしません。
壁面に梯子が設置されています。梯子の内側から掴まるのでしょうが、底を見ながらの上り下りはとてつもない恐怖に襲われるような気がします。

基礎部分には巻き上げ機のような設備が残されています。
扉を閉めると薄暗いですね。

正三角形に配置された塔の中心部分には、耐爆構造半地下式2階建ての局舎が残されています。
鉄筋コンクリート造りで、外壁は乱石積み仕上げとなっています。
戦後は海保と海自が使用していたので、窓枠はアルミサッシに交換されています。

爆撃に耐える構造になっているようですが、実際に攻撃を受けたことはなかったようです。
米軍は破壊せず無線を傍受する方が得策だと考えていた、との話もあるようです。
これだけ目立つ存在で軍事施設、攻撃目標なら間違うことはありませんね。

針尾送信所に関わるものとして有名なのが、太平洋戦争の開戦を告げる暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を発信したという話。
当時、針尾送信所の重要な役割は、主に中国大陸、東南アジア、南太平洋方面に展開する海軍部隊、特に艦隊との通信であったことから、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が針尾から発信されたと伝えられています。
この話については諸説あり、有力なものとしては「まず瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦・長門から暗号文を打電。呉通信隊を経由して、船橋送信所が真珠湾攻撃の部隊へ送信。同じ仕組みで針尾送信所が中国大陸や南太平洋の部隊へ発信した」ということらしいのですが、針尾送信所から送信したしたという確証は残っていないそうです。
局舎内には立ち入ることができませんが、窓にカメラを押し当てて撮ると広い室内空間。
事務所だったのか、機械室だったのか・・・。
地下部分の通路からは、冷たい風が吹き出ていました。

ここも「世界遺産?」かと思いましたが、よく見ると「日本遺産」と書いてあります。
日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が「日本遺産」として指定するもので・・・。文化庁HPの説明でもややこしい。
最近は「○○遺産」と銘打ったものが多く、認定する行政機関もそれぞれあって、価値や認定主旨を理解するのが難しくなってきましたね。

いずれにせよ、佐世保無線電信所の存在価値は揺るぎないものです。
遠くから眺めるのもよし、近づいて圧倒されるのもまたよし。
今は現地までの案内板が道路沿いに多数設置され、駐車場も整備されています。
西海橋方面のドライブの際には、是非立ち寄ってみられることをお勧めします!
壁面をよく見ると、四角い穴が空いていますね。これが窓の正体です。

高さ136m。塔内は真っ暗かと思っていましたが、12~13m間隔で4方向に窓が設置され、天気の良い日は上部まで明るい光の輪が続いています。
窓枠のように見えるものは、実際に窓枠であるのか、開口部の木製型枠が外れているのか?はっきりしません。
壁面に梯子が設置されています。梯子の内側から掴まるのでしょうが、底を見ながらの上り下りはとてつもない恐怖に襲われるような気がします。

基礎部分には巻き上げ機のような設備が残されています。
扉を閉めると薄暗いですね。

正三角形に配置された塔の中心部分には、耐爆構造半地下式2階建ての局舎が残されています。
鉄筋コンクリート造りで、外壁は乱石積み仕上げとなっています。
戦後は海保と海自が使用していたので、窓枠はアルミサッシに交換されています。

爆撃に耐える構造になっているようですが、実際に攻撃を受けたことはなかったようです。
米軍は破壊せず無線を傍受する方が得策だと考えていた、との話もあるようです。
これだけ目立つ存在で軍事施設、攻撃目標なら間違うことはありませんね。

針尾送信所に関わるものとして有名なのが、太平洋戦争の開戦を告げる暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を発信したという話。
当時、針尾送信所の重要な役割は、主に中国大陸、東南アジア、南太平洋方面に展開する海軍部隊、特に艦隊との通信であったことから、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が針尾から発信されたと伝えられています。
この話については諸説あり、有力なものとしては「まず瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦・長門から暗号文を打電。呉通信隊を経由して、船橋送信所が真珠湾攻撃の部隊へ送信。同じ仕組みで針尾送信所が中国大陸や南太平洋の部隊へ発信した」ということらしいのですが、針尾送信所から送信したしたという確証は残っていないそうです。
局舎内には立ち入ることができませんが、窓にカメラを押し当てて撮ると広い室内空間。
事務所だったのか、機械室だったのか・・・。
地下部分の通路からは、冷たい風が吹き出ていました。

ここも「世界遺産?」かと思いましたが、よく見ると「日本遺産」と書いてあります。
日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が「日本遺産」として指定するもので・・・。文化庁HPの説明でもややこしい。
最近は「○○遺産」と銘打ったものが多く、認定する行政機関もそれぞれあって、価値や認定主旨を理解するのが難しくなってきましたね。

いずれにせよ、佐世保無線電信所の存在価値は揺るぎないものです。
遠くから眺めるのもよし、近づいて圧倒されるのもまたよし。
今は現地までの案内板が道路沿いに多数設置され、駐車場も整備されています。
西海橋方面のドライブの際には、是非立ち寄ってみられることをお勧めします!