2013年01月28日

杵島炭鉱とチャンポン(佐賀県武雄市北方町)

撮影日:2013(H25).01.27

『鉱夫達の胃袋を満たしたチャンポン』

長崎にやってきた中国人留学生に、安くて栄養価の高い食事を提供したいという思いから生まれたチャンポン。
そんなチャンポンも所変われば、日々過酷な労働に汗する炭鉱(やま)の男達の胃袋を満たす食事となり、杵島炭鉱のあった武雄市北方周辺では今もその味が受け継がれています。

と言うことで、北方までチャンポンを食べにぶらっと出かけました。

杵島炭鉱1


野菜大盛りを注文しました。見た目びっくりしますが、食べ始めると苦にもならず完食です。スープは濃い目、野菜がたっぷりでも味が薄くなることはありません。
武雄へお出かけの際は、是非チャンポンを食べてみてくださいね。

さて、チャンポンだけでは今の北方町周辺に大きな炭鉱があったとは想像もつかないので、杵島炭鉱の遺構を紹介します。
この煉瓦の変電所跡は、大町町に残る杵島炭鉱関連の建造物です。
杵島炭鉱3


炭鉱王と呼ばれた地元資産家高取伊好(たかとりこれよし)が、1909(明治42)年、当時北方村大字志久(しく)にあった諸炭鉱を買収統合し、杵島第一坑(本坑)、杵島第二坑とし、本格的開発が始まります。
1919(大正8)年の出炭量58.6万トンは県下の約27%を占め、三菱の相知(おうち)・芳谷(よしたに)の大炭鉱を上回っるほどの勢いがありました。
1929(昭和4)年大町村の佐賀炭鉱を買収して第三坑とし、1918年設立の高取鉱業会社から杵島炭鉱会社と改称し、本拠を北方から大町に移します。
杵島炭坑4


同年には第四坑を開坑、文字どおり県下最大炭鉱となります。
1937(昭和12)年には、佐賀県内出炭髙109万トンのうち83万トンを占め、県下一の大炭鉱として佐賀の産業発展に寄与しました。
1943(昭和18)年には江北(こうほく)村に第五坑を開きます。本拠大町は炭鉱町として急激に発展、50年には人口2万4000人に達する炭都となりました。
そんな大規模な杵島炭鉱でしたが、他の炭鉱と同様にエネルギー革命の波を受け、1969(昭和44)年に閉山、閉山後は大半の人口が流出し、現在は7,000人余の静かな町となっています。

杵島炭鉱3 (2)


大規模炭鉱だったことから、周辺には遺構がまだまだ眠っているような気配がありました。

杵島炭坑5


少し暖かくなったら、またゆっくり散策してみようと思っています。

chibitaro0102 at 23:25コメント(0)トラックバック(0)炭鉱関連 | 食べ物 

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