2010年01月21日 21:05
金刀比羅神社で、昔の長崎を偲ぶ(長崎市西山町)
『玉垣が語る長崎の歴史』
金比羅山頂で、景色を眺めながら汗を乾かし、同じ道を下って「金刀比羅神社」に戻ります。
ここでまず注意することとして、この神社は金比羅(こんぴら)神社ではなく、金刀比羅(ことひら)神社と呼ぶのが正しい。
山は「こんぴらさん」、神社は「ことひらじんじゃ」。
一の鳥居の正面額にも、「刀」の文字があるでしょ!
社務所の方にも、「ことひらじんじゃですよ。刀という字が入ってるでしょ!」と、きっぱり言われました。
じゃ、なんで、「金刀比羅」なのかと聞かれても、神社の由来から明治維新の神仏混淆の禁止まで、いろいろな経緯について説明が必要となるので、今日は止めておきます(本当は、上手く説明できないだけです・・・スミマセン)。
それでは、本題の「昔の長崎を偲ぶ」へ!
本殿を取り囲む石の「玉垣」
今まで玉垣なんて気にも留めず通り過ぎていたのですが、今日は何となく刻まれた文字を読んでいくうちに、結構おもしろい発見がありました。
現在の金刀比羅神社本殿は、明治時代に建立されている。
これは玉垣の各四辺の角、大きめの玉垣に「明治42年建」と刻まれていることからも確認できる。
玉垣は神域と現世との境界であるとともに、神社を建立する際に、「寄進」、簡単に言えば寄附をした方々の名を刻み、後世に伝えるメモリアル的なものもあり、ここの玉垣には、寄進者の在所を示す町名と氏名が刻まれている。
殆どが、1本に1名の名が刻まれており、いかに多額の寄進をした方であろうことが想像できる。
町名が「丸山」、名前が「玉龍」と刻まれていることから、長崎検番の芸子さんではなかったかと勝手に想像する。
一回り大きな玉垣であることから、かなり売れっ子の芸子さんではなかったろうか・・・。
こちらは「高島炭坑 増田善太郎」とある。
明治42年頃の高島炭坑は、どのような様子だったのか?
今話題の、岩崎弥太郎が高島炭坑を買い取ったのが明治14年。
増田善太郎とはいかなる人物なのか、いろいろ想像するのもまた楽しい。
「三菱彦島造船所 岩崎八十一」
現在の下関造船所。
下関造船所HPの中に彦島造船所の記事があり、大正3年に開所式とある。
と言うことになれば、明治42年の玉垣との不整合。
岩崎八十一とはいかなる人物か?岩崎弥太郎と血縁関係にあるものか?
航海安全の神とはいえ、長崎の金刀比羅神社に寄進した理由は?
「韓国京城」 現在の韓国首都ソウル。
日本の韓国併合が1910(M43)年。
富国強兵、大陸進出、日本がこれから進んでいく方向を暗示させる。
そして、今は消えた長崎の町名を刻んだ玉垣がたくさんある。
他国から移り住んだ人を表す町名、商工業の生業から付けられた町名。
今は人が集まるどころか、出ていくばかりの長崎。商売と町名が結び付くような場所もなくなりましたが、町名は伝統ある呼び方、人と町を結びつける連帯・愛着を持つためには大切な鍵の一つだと思います。
復活はできなくても、カタカナの町名は止めて欲しい。
玉垣にあった、今は消えたと思われる町名。
東中町、出来鍛冶屋町、新橋町、渕船津町、下筑後町、住江町、本紺屋町、今魚町、本籠町、材木町、上筑後町、元馬込町、本下町・・・。
「本籠町、古町、材木町、上筑後町・・・」
町名だけ刻まれた玉垣が、いくつも並んで立っている。
個人で大きな寄進を行ったものではなく、町内で寄進を集めたのものであろうと思われるが、町名をみると「おくんち」の踊町と関係があるようなものばかりであった。
玉垣建立からちょうど100年。
物言わぬ石の中から、その時代に生きた人達の声が聞こえてくるような気がしました。
「丸山 玉龍」、「高島炭坑 増田善太郎」、「三菱彦島造船所 岩崎八十一」については、継続調査中。情報求む!
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コメント一覧
こんばんは。
流行病に罹ってしまいましたか・・・。
私は、鼻タレになるくらいで、熱発などの症状が出たのすらいつだったか記憶にありません。
すべてにおいて、流行から見放されていますね(笑)。
西海橋水族館は、場所とか知ってますが詳しい情報はありません。
佐世保の新しい水族館は、「海きらら」でしたっけ?
お客さんが多いと聞いています。暖かくなったら一度出かけようと思っています。
インフルから何とか復活しました(^^;
金比羅山ですか〜
最近は行った事が無いですね
しかし神社の「玉垣」に注目されるとはさすが!
でもこうして歴史と照らし合わせて見ると楽しいですね(^^
そういえば今ボクがアップしている「西海橋水族館」の事、何かご存知ですか?
うちの両親に聞いてもあまり記憶に無いみたいなんですよ〜(汗
こんばんは。
金比羅公園では、今もハタ上げがあっているんでしょうね。
今年は、唐八景かどこかに、ハタ上げを見に行きたいと思っています。
東琴平町の金刀比羅神社も「ことひら」ですよ!
こんばんは。
金刀比羅神社の始まりは四国のようですね。
豊漁、航海の安全など海の神様のようです。
長崎は教会、寺、神社・・・。
たくさんあります。
キリスト教が広まった頃には神社・寺を壊し、キリスト教が禁教となると教会を破壊する、
歴史的にいろいろな背景があるようです。
玉垣や鳥居、灯篭など、私が生まれる前、それこそ親さえもまだ生まれていない時代に
建てられています。
今、自分がいる時間の中に、100年以上も前の時間が共存していると思うと、何か
不思議な感覚になります。
金比羅山は遠足で毎年のように登ってましたね。
確か防空壕もありましたよね。
神社は名前が違うんですね。全く知りませんでした。
これって、「玉垣」と言うんですね。
初めて名前を知りました。
なんとなく、字が書いてあるのは知ってましたが、寄進された方の名前と云うのも初めて知りましたし、大きさに違いがあるというのも初めて知りましたです。
じっくり見るのもいろんな事がわかってなかなかいいもんですね。
今度、玉垣を見る機会があれば見てみます。
四国にも有名な「金刀比羅神社」があって、その詣で客を乗せる船を確か「こんぴら船」と言っていたような記憶がありますが...
単に「ことひら」と言うのが言いにくいので「こんぴら」になって、あとに「金比羅」という字をあてがったものとばかり思ってましたが、歴史的な経緯があるのですね。
私のブログで11月にエントリーしました大鷲神社の「酉の市」の写真1にも、鳥居の上の提灯に
「金刀比羅神社」の文字が書かれていますよ。